2022年映画ベスト10後半

2022年映画ベスト後半です

第5位 哭悲

ここまで撮っている側が大マジなゾンビ映画はいつぶりだろうか。

自分はゾンビジャンルだとロメロのゾンビシリーズだったり28日後シリーズだったりRECシリーズだったりはその作品世界の広さが感じられて、フレームの外でも事態が進行している感じが好きだったりするんだけれども正直ここ最近は例えばゾンビランドとかゾンビランドとかゾンビランドとかフレーム外を感じさせないオタクの内輪ノリの強いしょっぱい作品としか出会えていなくてジャンルに対する関心が薄まっていたんだけどこれは大当たりだった。

既存のゾンビに記憶と知性と性欲と良心を与えると比類なき地獄が顕現するのか、感染者はありったけの想像力をめぐらして非感染者を嬲り殺すことに使うがにもかかわらず己の蛮行の恐れおののき涙を流す、ここまで殺す側も殺される側も悲惨な話を語ることができるのか、荒木飛呂彦ゾンビ映画を癒しの映画だと語っていた、ゾンビは平等でそこに格差はないからだ。だがこの映画はゾンビであることの地獄を語っている。

 

第4位 オフィサーアンドスパイ

この映画は画面に映るちょっとした小物、書類の束だったり今にも蝶番の外れそうな扉だったり開けるたびにギシギシと音を立てる引き出しだったりフランス陸軍の野砲だったり兎に角それらの小物の表情、というかディテールがが素晴らしい!!それらが「とりあえず画面に映る部分だけ美術を作ればいい」というような志の低い映画とは格の違う品格を漂わせてる。

またドレフュス事件というセンセーショナル極まりない事件を題材にしながらも語り口の冷静さ、距離の置き方が素晴らしい。冤罪事件を隠蔽する差別主義者の陸軍とそれに立ち向かうピカール中佐という単純な形に還元せず、事件発生解決したがそれを引き起こした構造そのものは保持され、しかも中佐もその構造に取り込まれている、というどこまでも苦い終わり方をしていてそこも好みだったりする。

個人的にイタリアのフランチェスコ・ロージギリシャのコスタ・ガヴラスあたりの、ポリティカルフィクションを扱いながらもこちらをむやみに扇動しない監督の映画が好きなので大層好みの映画でした。あとやっぱポランスキーは映画が上手すぎる

 

第3位 フレンチ・ディスパッチ

正式なタイトルは『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』なんですけどタイトルがクソ長いので一部省略しました。

関係ないけど『追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフ謳歌する。~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~』コミカライズ版にはまって以来長いタイトルを見ると

「お、これもタイトル回収するんか?」という思考が脳裏をよぎることが多くなったためあの漫画やべえわ、ということも思ったりもしている。

映画に関しては造形の暴力のような映画だったので言語化するのが難しいのだけれど動きのない静止した画面でも画の強さで「おっ」と思わせ、その静止した画が動いて「おおおおっ」と更に気持ちを動かせられた。絵と映画両方の性質を併せ持つ、というような映画だった。なんなら冒頭のトレーに諸々の飲み物を載せていく、というシーンそれ自体は何でもないようなショットでも感情を動かされたのですげえもんみたなぁ、ということでこの順位。

 

第2位 偶然と想像

この順位にしておいてなんですけどこの映画しゃらくさいしかなり嫌い、というか気に食わない部分もたくさんあるんですよ。

第三夜の『もう一度』が特に顕著なんだけどアンジャッシュのコント的なすれ違いのストーリーを成立させるために『強力なコンピュータ・ウィルスが大発生し、このウィルスはあらゆる端末から機密情報を拡散させ、インターネットは遮断され、世界は郵便と電話をつかった古いシステムへ逆戻りする』という設定を導入しているんだけどこれがクソほど気に食わなくて何が気に食わないかというとインターネットっていう水道ガス電気に次ぐ第4のインフラともいえるインターネットが完全に消滅したらどうなるかということに対する製作側の想像力の圧倒的欠如、個人の生活は多様なシステムの集合体であるところの社会構造により規定されるというところから目をそらし、インフラの消滅による社会の構造の変化という事象を過小評価し(この映画で語られる社会の変化ってインターネットが使えなくなったのでサブスクリプションの配信がなくなりアニメの円盤を買う文化が蘇った、とかそのレベルのしょぼい話ですからね)己の半径数メートルの事象をまるでそれが世界のすべてであるかのように過大評価をする文芸映画監督の悪癖が強く出ている、というのが気に食わない部分なんだけど、じゃあ何でここまで言っておいてこの順位なのかというと演出と撮影で見たことがない景色を見せてくれたから、というところが大きい。

単位欲しさに土下座する大学生の後ろ姿をここまで異常なものが顕現したかのように撮影できてしまうのか?カメラのズームだけで想像の世界と現実を行き来してしまえるのか?中年女性2人がエスカレーターですれ違うだけのシーンをこれだけ豊かなものとして撮影することができるのか?できる、できるのだ。

いや。これが本当にびっくりした今年観た映画だと(おもしろかったけど)トップガンマーヴェリックよりもこの映画のほうが観ていて思わずガッツポーズをしてしまうシーンにあふれているとは思わなんだ。一昨年に観た映画だと閃光のハサウェイ、マリグナントに匹敵するような映像の快楽を文芸映画然としたこの作品から受け取れるとは思わなかった、思わなかったよ

話はずれるが前半でこの映画の悪口を書いていてなんで俺が黒沢清のことが好きなのか分かったけど黒沢清の場合文芸映画の高度な技法で巨大なものについて語ろうとしているからだ、ということを自覚した。

第1位 ONE PIECE FILM RED

この異形極まりない作品がここまで大ヒットした、という事実が驚きである。

正直今年観た映画の中だと断トツで変な映画だと思う。2010年以降の深夜アニメ、具体的に言うとまどマギ以降のような屈折した人格を持つゲストキャラ『ウタ』を話の中心に添えつつ全編ミュージカルの形式で話を進行しつつ、それをもってモノローグがなく実のところ原作読者でさえ解釈の難しいルフィの内面を間接的に掘り下げる、というonepieceらしからぬのにonepieceという作品の解釈そのものを変容させる、という類のない作品になっている。

 

あと自分の好みとして安易な感情移入を拒む異常な思想犯が大好きなのでウタ関連のシーンが凄い楽しめたのが大きい。この映画は本編で語られていないルフィの内面を補完する存在としてウタがいて、更にそのウタ自体安易な感情移入を拒むキャラなので養父であるゴードンに「あの子は不憫な子なんだ」と泣きながら統括させ、視聴者はそのゴードンに感情移入をすることで間接的にウタの心情を理解し、感動する、という構造をとっていて、異常者を描きながらその異常者に感情移入させて泣かせる、という凄いことをやっている

 

またこの作品の存在は自分が永らく感じていた「ブロックバスター映画作家主義的な文芸映画」、という二項対立を解消することができるのでは?とも考えた。

映画は多数の利害関係者により製作される、それが多額の資金のかかる映画ならなおのことだ、多数の利害関係者の中で思想や感性は平均化されそれ故にブロックバスター映画では何か異様なテーマや演出が出ることはあまりない。

反面作家主義の強い文芸映画では作品自体は作家がコントロールすることができるという点ではは新しい、異様なものが出来上がる下地はあるがその反面予算が少ないため撮れる題材が予算に規定される。

ONE PIECE FILM REDでは①onepiece本編の掘り下げ②全編ミュージカル形式③2010年以降のアニメのようなストーリー、という要素一つ一つ見れば割と普通だが明らかにシナジーがない要素を一つの映画にぶち込み、統合することで結果としてブロックバスターの予算と異様なテーマ性を兼ね備えた類を見ない作品に仕上がっている。

ということで自分は金のかかった画面で凡庸なテーマを語るか、それとも予算に規定されたうえで語れるテーマを選択するか、という対立を解消する新しい可能性をこの映画は作り上げた、と考えている。

one-piece 楽天市場