実写版志々雄真実についての考察

そもそも、るろうに剣心の原作において志々雄真実とはどのようなキャラクターだったのか?という事を考えると志々雄真実は幕末から明治、という時代状況に制約されない純然たるイデオロギーの人だったと言えるだろう。

 

他の章ボスが多かれ少なかれ幕末から明治の、時代に根差した問題意識を引きずり、その言動と行動をもってして同じく時代に根差した問題意識を抱える主人公たる緋村剣心と対比を行う、というのが原作漫画の作劇だった。

 

そのような中で志々雄はそのパターンから明確に逸脱したキャラクターとなっている。

明治政府への恨みではなく、つまり時代に制約された恨みではなく自身の信奉するイデオロギーである弱肉強食を実践するために破壊活動に大いにいそしみ、実際、京都編のエピローグにおいては明治政府に恨みはなくイデオロギーの実践という本人の言葉を裏付けるかのように閻魔相手の国盗りを口にする、という節操のなさを見せつける。

 

原作作劇のセオリーから外れたキャラクター故に逆説的に最も魅力的な悪役として表現された。

 

藤原竜也の志々雄真実の演技そのものは完コピと言っていいぐらい原作のそれを再現している。しかし完コピそのものの演技に反して文脈を変えることで別のキャラになっている。

 

実写版のオリジナルで鳥羽伏見の戦い終結時に、仲間からねぎらわれた志々雄が人懐っこい笑顔を見せる。その直後に裏切られ一転してその表情が絶望に染まる、という回想がなされる、それは原作のイデオロギーの人である志々雄からは考えられないようなシーンである。

また伊藤博文との会談において明治政府に恨みはない、と明言しつつもネチネチと当て擦る一幕がある。上記の裏切られた時の顔と合わせると恨みはない、という発言が本心からなされたものではない、ということがわかる。

大好きな長州藩の仲間から裏切られたのが悲しくてどうしようもないが、そのことを自覚するとやりきれないので原作のような、イデオロギーの人として表面上ふるまっているのだ。

 

長州藩に対するアンビバレントな思いが見て取れるのが明治政府の手で剣心を処刑するよう勧告する一連の流れだろう。自分と同じ人斬りにもかかわらず英雄として愛されたことが許さないと言いたいようだ。

 

この様に実写版においては志々雄真実はイデオロギーの人ではなく情念の人として描かれている。

 

実写版の志々雄真実は原作のそれ以外のキャラクターがそうであったように時代に根差した問題意識を引きずっているキャラクターとして表現されている。それによりテーマの一貫性を保ちつつも可能な限り原作の魅力も抽出することに成功している。