君のことが大大大好きな100人の彼女の主人公、元ネタチャールズマンソン説

実際、君のことが大大大好きな100人の彼女はすぐれた作品ではある。

エッチ要素を大きく含んだハーレム物にもかかわらず、ハーレムものに付きまとう倫理観の問題を”通常は一人一組の運命の人がいるのだがそれが神様の手違いにより主人公には100人いて、しかも運命の人と出会わなければ不幸になり死ぬ”という設定の導入によりハーレムジャンルの快楽をコンテンツ受容者に与えたうえで不幸な未来に遭うヒロインたちを救済する、という大義名分を与えることで倫理的な問題をも解決し、その上で過剰なまでに誠実な主人公愛城恋太郎の奇行とそれを好意的に解釈し続けるヒロインたちの奇行でギャグマンガとしての要素も併せ持っている。

 

しかし何故だか視聴していてぬぐいがたい違和感がある。

この違和感は何なのだろうか

あれ?このアニメの前提となっている神様、主人公の前にしかでてきてねえな。この神様って作中現実に存在するやつか?主人公しか認知していない時点で妄想の可能性出てこないか?

 

また主人公愛城恋太郎とそのハーレムを構成するヒロインたちはハーレムを恋太郎ファミリーと呼称している。自分たちをファミリーと呼称……そのファミリーの中核人物がカルト疑惑……チャールズマンソンにマンソンファミリーを連想するなというほうが難しい

 

実際、作品におけるギャグは作品のリアリティラインを偽装し伏線を隠し作品のジャンルを誤認させる効果がある

 

例を挙げていくと、追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフ謳歌する。~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~は当初、ナーロッパ的な世界観で物語が展開され、序盤の強敵である如何にもファンタジー然とした双頭のドラゴンの燐光龍が、ウージー短機関銃を隠し持ち主人公に不意打ちを仕掛け返り討ちに遭うという展開がある。

 

これを読者は作者によるアナクロニズムなギャグと解するわけだがミスリードである。

話の進行とともに文明と非常に強力だが文明と両立することができない魔術、という設定が開示され、それとともに前述のウージー短機関銃がただのギャグではなく作品の根幹をなす重大な伏線であったと遡及的に理解される。コミカライズ作者はギャグを媒介にナーロッパ的世界観と現代異能力バトルを接続したのだ。

 

鎌倉殿の13人15話、足固めの儀式では大泉頼朝がそれまでのコメディリリーフ然とした大泉洋が身もふたもない政治的リアリズムを発揮させ、恩人かつ罪のない上総介を誅殺した。パブリックな大泉洋のイメージを利用することでホームドラマと陰惨な政治劇を接続している

 

三島由紀夫VS東大全共闘の、全共闘ゲバ棒を使っているが私は文明がもう少し進んでいるので目下日本刀を準備していると三島は気さくな右翼ジョークを披露するが後々クーデター未遂の末切腹を起こす。

 

ギャグにはこのような異なるジャンルを伏線を隠したうえで接続する機能がある。

というわけで君のことが大大大好きな100人の彼女の主人公の元ネタがチャールズマンソンである可能性は十分にある。

 

 

2022-2023 微妙に不満もあったがわざわざ文句を言うほどではないな、レベルの感想を挙げるタイミングがわからなくなった映画感想(ベイビーわるきゅーれ2,怪物、呪詛、輪るピングドラム劇場版)

この記事では微妙に不満はあったが映画代ぐらいの満足はしているしわざわざ長文を書くほどではないな、感想が固まるまで時間がかかり公開からかなり立ったのに今更文句言わんでもいいか、という立ち位置の映画の感想をまとめておきます。

 

ベイビーわるきゅーれ2

良かったポイント

・花束みたいな恋をしたのキレながらプロポーズをする菅田将暉のモノマネのシーン。

花束みたいな恋をしたのキレながらプロポーズをする菅田将暉は身内ネタで擦っていたので「あれやっぱ面白いよな」と再確認できた。これだけで映画代のもとは取れた

 

微妙じゃね……?ポイント

・ベイビーわるきゅーれ1作目はどこまでも続くような緩い会話からその緩さを断ち来るような唐突な暴力、アクションが固有のリズムを作り上げ、それが作品そのものの魅力となっていたのだがその美徳を悉くかなぐり捨ててしまっている。というかシーンごとにやりたい事が乖離しており、作り手側がどの様に観客の感情を動かしたいのか混乱している節がある。

序盤の銀行強盗のシーンなどが顕著なのだが銀行強盗が現れる、その強盗を制圧する、という一連の流れ全てがコント風に演出されており、前作のような緩い会話とアクションで緩急を付ける、ということが出来ておらずただ漫然と身内ネタを見せつけられているような気持になる。

また今作はマイケルマンのヒートのような構成になっているのだがその複雑な構成に作り手側の演出が追い付いていないように見受けられる。主人公であるちさととまひろの対になるもう一組の主役にあたる殺し屋兄弟がちさまひの仲間を銃撃(ここはシリアス)→ちさまひの所属する組織が殺し屋兄弟のマネージャーを暗殺(ここはアウトレイジ風なドライな人死に)→銃撃されたちさまひの仲間が2人に殺し屋兄弟の暗殺を依頼(ここは熱血に盛り上げるように演出)→ちさまひと殺し屋兄弟の決着、殺し屋兄弟は死ぬがその直前にちさまひとの間に友情が芽生える(ここはウェットに)とシーンごとのトーンが統一されておらず、その上一作目のようにそれらを統合することもできておらず散漫かつ冗長に感じられてしまった。

あとこれは演出意図は理解できるので純然たる趣味の話なんだけれども出てくる連中がそろいもそろって飯の喰い方が汚いのがイライラしてしまった。作り手の意図は分かるが

 

怪物

良かったポイント

・映画的には文句の付け所はないと思うし、是枝監督らしからぬある種カタルシスを感じる、銀河鉄道の夜から引用されたラストショットも良かった。

 

微妙じゃね……?ポイント

まさしくその映像的にはカタルシスのある、銀河鉄道の夜から引用されたラストショットがそれにあたる。カタルシスのあるショットが社会派としての筋を損なっている。

 

社会派映画とは何か、ということを考えると通常映画は起承転結*1がありハッピーにせよバッドにせよ何かしらの結論が与えられるものだ*2

 

社会派映画を撮るということは現実の、起承転結に収まらないコントローラブルな現在進行中で解決困難な社会問題を、2時間前後で一応は何かしらの結論を出したがる、起承転結を指向する映画の文脈に組み込む行為である。

 

例えば万引き家族を例に挙げるとあの映画のラストショットは尻切れトンボである。

 

映像的なカタルシスでいうと中盤のスイミーの件や警察の取り調べシーンでの切り返しショット*3がクライマックスであり、それに反してラストショットはかなり弱い。

 

しかしこの尻切れトンボっぷりは作り手の意図であり、作中で取り扱った社会問題が実際には解決していない以上それがなにか解決しているかのように描くべきではない、という抑制的な振る舞いが見受けられる。提示した問題を観客に持ち帰ってほしいという目的がカタルシスを作らず尻切れトンボなラストショットを要請したのだ。誠実さ故の尻切れトンボなのだ

 

翻って怪物のラストショットは確かに素晴らしいものだったが(脚本レベルでも)解決していない問題を、あたかも解決したように振る舞ってしまう不誠実さを伴っている。

呪詛

良かったポイント

・ホラー演出全般、あと大黒仏母のデザイン

 

微妙じゃね……?ポイント

・ネタバレをしてしまうとこの映画のオチはよくある不幸の手紙オチなのだがそもそも個人的な評価として「この映画を見たあなたにも不幸が訪れるんですよ!ほかの人にも見せないと呪いが薄まらないんですよ!」なネタはなんかせこくね?と思ってしまうしそりゃ直接お前を殺すと恫喝されればいい気にはならんでしょ、浅ましいバズ狙いだな、とも感じてしまうのだがさらに言うと呪詛自体ネットフリックスで見たのだがかなり長いこと視聴数ランキング第一位に位置にあったので「作中の設定的に呪いくっそ薄まってるでしょ」となってしまった。

 

輪るピングドラム劇場版

良かったポイント

・映画用に作られた新OP『僕の存在証明』があまりのもよかった。劇場で鑑賞しているとき発作的に礼を言いそうになった。

・割れたガラスのモチーフや食べられずにぶちまけられる料理、といった作中で繰り返されているモチーフに改めて気が付くことができた。

 

微妙じゃね……?ポイント

・もともと輪るピングドラム自体引きの強いクリフハンガー、OP・EDの捻った運用などなどTVアニメという形式に最適化されて作られた作品でそれが魅力だったのだが、やはりそれらの魅力を映画という形式に移植しきれなかった、という点はある

・TV版が2クールかけて語ったテーマを短い尺で説得力を持って語る上で原作同様のカリスマ性を維持したうえでは難しいという判断なのだろうけどラスボスたる眞悧先生を小物化させてしまっている。眞悧の思想は作品を通して見ると確かに否定されるべきものなのだがここまであからさまに弱体化されるとかえってテーマそのものへの信用性が薄れる。

・というか劇場版のオリジナルシーンでTV版エヴァの最終回の「おめでとう」を意識したであろうシーンがあるのだが、そこに関しても眞悧ナーフと合わせて作り手側がTV版で語ったテーマを信じ切れてないのでは?という気持ちになってしまう。テーマを信じ切れていないから対立意見のラスボスを弱体化させるし、TV版エヴァ最終回じみた自己啓発セミナー的な演出を取り入れてしまう

 

 

*1:もちろん例外はいくらでもある

*2:当然これにも例外はいくらでもある

*3:小津安二郎の機能している引用である

2023読んだ本ベスト10

鳥/デュモーリア
炎の門/プレスフィールド
U/皆川博子
カフカの父親/ランドルフィ
シチリア・マフィアの世界/藤沢房俊
平成精神史/片山杜秀
文学の淵を渡る/大江健三郎古井由吉
怪奇小説日和/西崎憲
トマトケイン/ナイジェルニール
誰?/バドリス

 

Twitterに挙げたものを記載。とりあえず記録用に

2023年映画ベスト10

ランキング自体はTwitterに挙げたものなのだがその選定理由を挙げていく。





⑩EO

面白かったか、と言われると面白い映画ではなかったが監督がやりたい事がなんとなくわかるし、そのやりたいこと自体も固有性の高い事なのでこの順位に。

一見して分かるように今作は無声映画の如きクラッシックな佇まいを誇っている。例えばリュミエール兄弟の列車の到着がそうであるような。

無声映画は映像そのものに対する驚愕がある。列車の到着が上映された時の観客が映像から逃げ出した、というエピソードからもわかるだろう。

その、無声映画的な、映画の原初的光景を人はもう語れない。人は語り手としては自意識が強すぎ、その思考はあまりにも文脈を帯びすぎている。

2023年にもなってクラシカルな映画の原初的光景を顕現させる、その手段として人のように物語を見出さない語り手としてのロバを据える、という着想も必然性があり、スコリモフスキ当人がやるべきことをやった、というところで好感触がある。

⑨PERFECT DAYS

なんとも破廉恥かつ、共感性羞恥を刺激される、文系のインテリ崩れ、インテリもどきにむけたポルノグラフィティな作品ではある。

トイレ清掃員ではあるが実はインテリな役所広司が家出してきた姪っ子ちゃんから小説の趣味を褒められ(その本というのがハイスミスの11の物語、というあたりが俺のようなインテリもどきを狙い撃ちしてくるような選定だったりするのだ)、破顔するシーンに至ってはその邪念がピークを迎え、普段の自分であれば”そういうの恥ずかしいから辞めろつったよな”とキレてしまっただろうが、きれなかった、というか上映中ずっと幸せな気分であった。

今作をインテリ崩れ向けのポルノグラフィティになるのを救っているのが主演役所広司の存在である。終始かわいいのだ。ちいかわが実写化されるとしたらもはやちいかわ役は役所広司以外にあり得ぬだろう、と考えてしまうくらいには終始かわいいのだ。

名優、役所広司の人徳の高さをここまで生かした映画はないだろう。

アルマゲドンタイム ある日の肖像

ジェームズグレイ監督作品、初めて見たけど映画がうますぎる。

良質な文芸作品特有の言語化しにくいモヤモヤを抱えたまま劇場を去ることになるタイプの良作。

⑦鬼太郎誕生ゲゲゲの謎

端正なルック、適切な編集、ディテールの練られた美術、という辺りで冒頭10分の時点で既に好感度が高かったのだが終盤の展開がマジで良かった。

こんな糞みてえな搾取で成り立っている糞みてえな村、及びこんな糞みてえな村の存在前提で成り立っている糞みてえな国なんぞ滅んじまえ!!俺含めて全員死ね!!というテンションからのそれを断念する流れがどちらも納得できるものだったのが本当に良かった。

若干話は変わるがこの制作側が明確に政治的メッセージを発しているこの映画に対し、因習村なるネットミームを用い、脱政治化して受容をしようとしているタイプのインターネットのオタクを俺は心の底から憎悪しているし小馬鹿にしている。

明確に政治的なメッセージを発している作品からテーマ性をスポイルして語りなおそう、という振る舞い自体作品に対し不誠実かつ政治的な振る舞いに他ならないだろう。*1

⑥首

期待値はあまり高くなかったが滅茶苦茶良かった。

期待値が低かった理由としては構想30年という前情報と北野武がインタビューで大河ドラマのような甘っちょろい歴史ものではない汚い歴史を描く、というようなことを言っていたのが引っかかっていたからなのだが、自分としては近年の大河ドラマは最新の研究を取り入れてテンプレから逸脱した人物像を描くことが多いし、主人公の負の側面にも目をそらさず描いているので北野武の認識が古くなっているのでは?構想30年とは言ってもその企画は旬を逃しているのでは?と考えていたが杞憂に終わった。

北野武が主張するところの大河ドラマとの違い、具体的に言うと武士も百姓も区別せず愚弄しているというところであろう。

百姓関連の描写を取り上げると本作の百姓は歓声を挙げながら処刑を見物し嬉々として落ち武者狩りを行い人死に全般にあっけらかんとしている、実際的な存在として描かれている。

戦国武将の描き方も容赦がなく、衆道*2切腹*3といったロマンは主に秀吉の視点から理解不能なものとして描かれる。

終盤百姓でありながら武士の価値観を内面化した茂吉は落ち武者狩りに巻き込まれ命を落とし、反面百姓の価値観を保持し続けていた秀吉は山崎の戦を制し、”首なんてどうでもいいんだよ馬鹿野郎!”と光秀の首を蹴り飛ばし幕を閉じる今作は七人の侍のテーマ*4をよりラディカルに実践している。

禁じられた遊び

ここ何年も不調だった中田秀夫がひさしぶりに面白いホラー映画を撮ってくれた、というのが何よりも嬉しい。やはり邦キチの作者の如き小馬鹿にしても怒られない作品を探すことにばかり長けた凡俗が馬鹿にしていい作家ではないと再確認した。

序盤の構成はややもたつくがそこを超えると如何にもなJホラーから始まりペットセメタリーものにジャンルが変わり、終盤に至ってはオーメンに変容する、というジェットコースターっぷりがとにかく楽しい。

シソンヌ長谷川が演じる胡散臭いが実力のある霊能力者が秒殺されるシーンが特に好き。本物の霊能力者が怪異に秒殺されるシーンが本当に好き。ダークギャザリング……来る。……禁じられた遊び……

④ミンナのウタ

ここ何年か軽んじられていた清水崇がしっかり怖いホラー映画を撮ってくれたのが本当に嬉しい。やはり邦キチの作者が如き借り物の画風で内容は小馬鹿にしても怒られない作品を探してきて小馬鹿にするだけの、人のふんどしでしか相撲のとれない自分のふんどしも買えねえ貧乏力士が小馬鹿にしていい作家ではないと再確認した。

GENERATIONのアイドル映画でもあるのだがそれがかえって幸いしたのか清水崇の当人がやりたい要素を詰め込みすぎて構成が散漫になる悪癖が上手いこと抑制されたのか近年の村シリーズと比較して綺麗に纏まっている印象があり、ノイズ無しにホラー演出の冴えにおいては当代一のキレを誇る清水監督の技巧に酔いしれることができる。

ザ・ショックや呪怨白い老婆などの先行作品のの引用も正確に機能している点も見過ごせない。

何と言っても今作の目玉は悪霊高谷さなであろう。生前の時点で低い倫理観と当人にしか理解できない使命感で害を振りまき、目的のためには自身の命を絶つことすら厭わないその姿勢、ヴィランとしての圧倒的な格の高さを見せつけてくれる。

リング・呪怨以降の貞子加耶子のエピゴーネンから脱却した悪霊像としてこれを称揚したい。*5

 

 

③雨にぬれた舗道

特集上映で今年公開の映画ではないが日本公開は初なのでランキングに入れてしまった。ほとんど山岸涼子のホラー漫画。でもアルトマンのほかの監督作を見るからに異色作っぽいのが残念。円盤きたら絶対に買うしその時に記事を書きたい。

 

②フェイブルマンズ

これはあまりにもよかったので記事書きました。

ononoooon.hatenablog.com

①シン・仮面ライダー

ononoooon.hatenablog.com

完成度の高い映画では決してなかったがこの映画のことを言語化していく作業は極めて幸福な時間だった。

 

 

 

 

 

*1:政治的なメッセージを発している作品からテーマ性をスポイルして語りなおそう、という振る舞いを政治的な振る舞いだと自覚している者に関しては許す

*2:延々と色ボケかましている荒木村重明智光秀の扱いを見よ

*3:なげーんだよ馬鹿野郎!まだ終わんねえのかよ!

*4:勝ったのは百姓たちだ

*5:高橋洋が映画の魔で書いた反復され、当人の自我が擦り切れ、呪いを振りまくシステムに成り上がった貞子と、生前も死後も強靭な自我と明確な目的意識を持ち呪いを振りまく高谷さなは好対照である

実写版志々雄真実についての考察

そもそも、るろうに剣心の原作において志々雄真実とはどのようなキャラクターだったのか?という事を考えると志々雄真実は幕末から明治、という時代状況に制約されない純然たるイデオロギーの人だったと言えるだろう。

 

他の章ボスが多かれ少なかれ幕末から明治の、時代に根差した問題意識を引きずり、その言動と行動をもってして同じく時代に根差した問題意識を抱える主人公たる緋村剣心と対比を行う、というのが原作漫画の作劇だった。

 

そのような中で志々雄はそのパターンから明確に逸脱したキャラクターとなっている。

明治政府への恨みではなく、つまり時代に制約された恨みではなく自身の信奉するイデオロギーである弱肉強食を実践するために破壊活動に大いにいそしみ、実際、京都編のエピローグにおいては明治政府に恨みはなくイデオロギーの実践という本人の言葉を裏付けるかのように閻魔相手の国盗りを口にする、という節操のなさを見せつける。

 

原作作劇のセオリーから外れたキャラクター故に逆説的に最も魅力的な悪役として表現された。

 

藤原竜也の志々雄真実の演技そのものは完コピと言っていいぐらい原作のそれを再現している。しかし完コピそのものの演技に反して文脈を変えることで別のキャラになっている。

 

実写版のオリジナルで鳥羽伏見の戦い終結時に、仲間からねぎらわれた志々雄が人懐っこい笑顔を見せる。その直後に裏切られ一転してその表情が絶望に染まる、という回想がなされる、それは原作のイデオロギーの人である志々雄からは考えられないようなシーンである。

また伊藤博文との会談において明治政府に恨みはない、と明言しつつもネチネチと当て擦る一幕がある。上記の裏切られた時の顔と合わせると恨みはない、という発言が本心からなされたものではない、ということがわかる。

大好きな長州藩の仲間から裏切られたのが悲しくてどうしようもないが、そのことを自覚するとやりきれないので原作のような、イデオロギーの人として表面上ふるまっているのだ。

 

長州藩に対するアンビバレントな思いが見て取れるのが明治政府の手で剣心を処刑するよう勧告する一連の流れだろう。自分と同じ人斬りにもかかわらず英雄として愛されたことが許さないと言いたいようだ。

 

この様に実写版においては志々雄真実はイデオロギーの人ではなく情念の人として描かれている。

 

実写版の志々雄真実は原作のそれ以外のキャラクターがそうであったように時代に根差した問題意識を引きずっているキャラクターとして表現されている。それによりテーマの一貫性を保ちつつも可能な限り原作の魅力も抽出することに成功している。

 

 

 

ダムドファイル全部観たので私的ベスト5

というわけでu-nextでダムドファイル全話見たのでベスト5の紹介をしようかなと

ご存じない人のために説明しておくとダムドファイルは、2003年に名古屋テレビが制作した30分で1話完結の3シーズン全30話の各話によって出演者が異なるオムニバス方式で名古屋を中心にした東海地方の心霊スポットや心霊話が元となっている、ローカル色の強いホラー番組である。

 

視聴理由としては接吻、愛のまなざしを、などの弩級の傑作をものにしている万田邦敏がそのうち何話かの監督、脚本を担当していて、この人が撮るホラーなら確実にすごいだろう、という俗に言う万目*1で視聴した。

 

 

5位 24話 マフラー 四日市市

幽霊本人が語り手を務める、という変則的なゴーストストーリー。

語りそのものは穏やかな口調で、風貌も生前のそれと変わらない、殺された恨みを感じさせないものにもかかわらず実際にやっていることを箇条書きにすると怨霊そのもの、というギャップが魅力的なエピソード。

終始穏やかな進行の中オチで掘り返される死体の禍々しさは特筆すべきものがある。

 

 

4位 22話 鏡 多治見市

鏡の中にしか映らない怪異に憑きまとわれる、というそれ自体はよくあるシチュエーションを工夫された構図、ロケーションで魅せてくれるのが魅力的な1話。

また怪異のバックボーンが古代の青銅鏡に封印されていたなにか、というあたり古代ケルトの異教的なモチーフを度々取り上げるアーサーマッケンやナイジェルニール作品を想起した

3位 9話 マンション 千種区

七字幸久監督回。怪異の一つも起こっていないのに不穏な雰囲気を発散している冒頭の長回しの時点で傑作と確信した1話。

白昼堂々徘徊する怪異、メンデスのアメリカンビューティーを想起する風に翻るビニールシートのショットと、そのビニールシートがそのまま霊に変容するショット(このショットはメンデスが風にあおられるビニールシートに見出した美をそのままホラーの文脈に転用したようだ)、加減なしのゴア描写、因果応報とは無関係に駆動する容赦のない脚本、とスキのない恐怖作品だった。

 

2位 1話  テレビ局 中区

記念すべき第一話。弊ブログは今作をほん怖のような実録心霊ドラマだと思っていたのでアバンの時点でガッツリ人死にが出たことにビビった。

このエピソードの特徴としては舞台となるテレビ局の撮影が良い。テレビ局というホラーとは結び付きにくいロケ地をゴシックホラーの巨大建造物を撮るような演出で撮ってしまっている。ラースフォントリアーのキングダムが近代的で清潔な北欧の巨大病院を舞台にゴシックホラーを撮ったのと同じことをしている。

 

1位 25話 幽霊団地 西区

七字幸久監督回。ダムドファイル自体ローカル局での放送だったのであれだけれども控えめに言ってもこの回はホラーのマスターピース足りうるだけの格の作品だと思う。

冒頭、ロングショットで夕暮れ時の団地に、示し合わせたかのように一斉に光が灯るシーンからして既に不穏なのだがそれ以降の23分間、高い水準をほこる恐怖描写を一切の隙を与えず押し付けてくる。

本当にあった怖い話の傑作、霊の蠢く家をアップデートしたようなあるシーン、ビデオ版呪怨を想起させる徹底的な皆殺しすることを目的としたような脚本、交通事故という極めて映画的な題材を、最大効果を発揮するタイミングで挿入したあるシーン、ネタバレになるので詳しくは語れないが全話見るのは時間がちょっと・・・というホラーのオタクもこの回だけは最低限見たほうが良い

 

またランキングからは漏れたがエクソシスト3や悪魔の首飾りを引用したうえで十全に機能させた2話、ホラー映画における監視カメラ演出の新機軸を見出した4話、ブリキの太鼓がそうであったように、内田百閒の東京日記がそうであったように、鰻という魚の身にまとう不穏さに言及した14話、フィンチャーのセブンのラストのあれを実際にに見せてしまったような16話、などもそれぞれ興味深かった。

 

ダムドファイル全話鑑賞して、特に何が良かったかを考えると七字幸久監督を見いだせたことだろう。これだけの作品を撮れる人が埋もれているのは控えめに言っても文化的な損失もいいところなのでもっと注目されるべきだ、と思う。七字幸久の今の仕事について何か知っている人がいれば是非教えてほしい

 

 

*1:俗に言わない

復讐物語孝

*本記事ではボーダーライン、オールドボーイの致命的なネタバレを含みます

 

復讐を題材にした作品は必然的にその構造に欺瞞を抱えている。

例えば、何の作品でもいいがジョンウィックを例に挙げてもいい。まず前提として視聴者はこの映画が復讐を題材にした作品、であることを知ったうえで視聴を始める。*1

ジョンウィックは亡き妻の残した犬と穏やかな日々を過ごしているわけだが視聴者の立場としてはこの穏やかな日々は、これが復讐を題材にした作品であるという前提知識により理不尽な暴力により終わりを告げる、ということを当該シーンが訪れるよりも前に知っている。

そもそも視聴者であるところの我々は何を期待してこの映画を観ているのか、と考えるとそれは大義名分を持ったうえでの暴力でありその過程で生じるアクションである。

ここでねじれと欺瞞が生じることとなる。視聴者であるところの我々が望んでいるのが大義名分を持ったうえでの暴力でありその過程で生じるアクションである以上、そこにいたる展開でジョンウィックの犬は無法者により殺されなければいけなくなる。

つまり視聴者は自分が望む展開を見るために、潜在的に犬の死を望むことになる。犬の死により駆動する復讐の物語を享受するために潜在的には犬の死を望みながら、視座としてはジョンウィックのそれよりも犬殺しの無法者のそれに近接しながら、それと同時に復讐の物語に感情移入するためにその死を憤って見せる、というねじれと欺瞞が生じることとなるのだ。

 

かかる欺瞞をどの様に対処するのか、ということに冒頭に挙げた二作品は答えを出している。

 

麻薬カルテルとの戦いを描くヴィルヌーヴのボーダーラインにおいて、序盤から中盤の話の主軸はエミリーブラントが演ずる順法精神の高いFBI捜査官の視点で進行し、サイドストーリーとしてベニチオデルトロが演ずる捜査の為に手段を択ばない現地協力者の殺し屋の視点がその合間に挿入される、という形式が採用されている。

視聴者としてはヴィルヌーヴの意図を捜査におけるスタンスの違う二人のバディものを撮りたいのだな、と理解する。これがひっかけである。

遵法精神の高いエミリーブラントの活躍は脚本の進行とともに後景に退き始め、その逆にベニチオデルトロの殺し屋を巡る物語が前景に立ち始める。

終盤において殺し屋の素性が語られる。曰く麻薬カルテルに妻子を嬲り殺しにされた元検事であり、その復讐のために今回の作戦に参加していた、と

そして復讐を終え、物語の最終盤にこの映画の原題であるsicario(殺し屋)が表示され、

この映画の主人公は殺し屋であるデルトロであり、彼の復讐を題材にした物語であるということをここに至るまで隠し通してきた、ということを観客は理解することになる。

 

同じようなひっかけをパクチャヌクのオールドボーイも行っているがボーダーラインとは打って変わって復讐を題材にした作品であることを隠していない。ではなにをひっかけたか、それは復讐の主体である。

チェミンシクは冒頭、誘拐され15年物もの監禁の憂き目にあう。その後監禁状態から解放された彼は復讐のために自分をこの様な目に遭わせた相手への復讐のために真犯人を探す、というのがこの映画のプロットだ。

このプロットは例えば先に例に挙げたジョンウィックと比較すると復讐を題材にした作品のそれとしては欠陥があるように感じる。

冒頭の拉致監禁に至るまでのチェミンスクの過去の来歴について何一つ語られていないため観客の立場からすると復讐者であるミンスクに感情移入を行うためのフックが存在せず、復讐者に肩入れできず居心地の悪い宙ぶらりんな感情になる。これはチャヌクの意図である。

 

物語の最終盤、真犯人であるユジテから拉致監禁の意図が語られる。

学生時代、彼は実の姉と近親相姦の関係にあったがその関係を知ったミンスクはそれを悪意なく言いふらしそれにより姉が自殺に追いやられた挙句、言いふらした当本人がそれを忘れていたための復讐だと

真相の開示により復讐の主体はそもそもミンスクの側になく、最終盤までその真意が隠されていた黒幕の側にあったのだ。*2

 

とこのように復讐を題材にした作品は構造レベルで瑕疵を抱えており、本記事ではそれに解決策を与えた二作を挙げたがあえて解決せず敢えてその瑕疵を拡張、拡大した異形の作品群もまた存在しており、それについては別記事で書くことにする

 

 

*1:地上波で放送していたところを前情報なしで見ることになる、というケースもあるがここではそれについては触れない

*2:ここでオイディプス王の神話をなぞらえたかのような近親相姦と忘却の主題に立脚した復讐がなされるのだがそれについても機会があればなにか書きたい