復讐物語孝

*本記事ではボーダーライン、オールドボーイの致命的なネタバレを含みます

 

復讐を題材にした作品は必然的にその構造に欺瞞を抱えている。

例えば、何の作品でもいいがジョンウィックを例に挙げてもいい。まず前提として視聴者はこの映画が復讐を題材にした作品、であることを知ったうえで視聴を始める。*1

ジョンウィックは亡き妻の残した犬と穏やかな日々を過ごしているわけだが視聴者の立場としてはこの穏やかな日々は、これが復讐を題材にした作品であるという前提知識により理不尽な暴力により終わりを告げる、ということを当該シーンが訪れるよりも前に知っている。

そもそも視聴者であるところの我々は何を期待してこの映画を観ているのか、と考えるとそれは大義名分を持ったうえでの暴力でありその過程で生じるアクションである。

ここでねじれと欺瞞が生じることとなる。視聴者であるところの我々が望んでいるのが大義名分を持ったうえでの暴力でありその過程で生じるアクションである以上、そこにいたる展開でジョンウィックの犬は無法者により殺されなければいけなくなる。

つまり視聴者は自分が望む展開を見るために、潜在的に犬の死を望むことになる。犬の死により駆動する復讐の物語を享受するために潜在的には犬の死を望みながら、視座としてはジョンウィックのそれよりも犬殺しの無法者のそれに近接しながら、それと同時に復讐の物語に感情移入するためにその死を憤って見せる、というねじれと欺瞞が生じることとなるのだ。

 

かかる欺瞞をどの様に対処するのか、ということに冒頭に挙げた二作品は答えを出している。

 

麻薬カルテルとの戦いを描くヴィルヌーヴのボーダーラインにおいて、序盤から中盤の話の主軸はエミリーブラントが演ずる順法精神の高いFBI捜査官の視点で進行し、サイドストーリーとしてベニチオデルトロが演ずる捜査の為に手段を択ばない現地協力者の殺し屋の視点がその合間に挿入される、という形式が採用されている。

視聴者としてはヴィルヌーヴの意図を捜査におけるスタンスの違う二人のバディものを撮りたいのだな、と理解する。これがひっかけである。

遵法精神の高いエミリーブラントの活躍は脚本の進行とともに後景に退き始め、その逆にベニチオデルトロの殺し屋を巡る物語が前景に立ち始める。

終盤において殺し屋の素性が語られる。曰く麻薬カルテルに妻子を嬲り殺しにされた元検事であり、その復讐のために今回の作戦に参加していた、と

そして復讐を終え、物語の最終盤にこの映画の原題であるsicario(殺し屋)が表示され、

この映画の主人公は殺し屋であるデルトロであり、彼の復讐を題材にした物語であるということをここに至るまで隠し通してきた、ということを観客は理解することになる。

 

同じようなひっかけをパクチャヌクのオールドボーイも行っているがボーダーラインとは打って変わって復讐を題材にした作品であることを隠していない。ではなにをひっかけたか、それは復讐の主体である。

チェミンシクは冒頭、誘拐され15年物もの監禁の憂き目にあう。その後監禁状態から解放された彼は復讐のために自分をこの様な目に遭わせた相手への復讐のために真犯人を探す、というのがこの映画のプロットだ。

このプロットは例えば先に例に挙げたジョンウィックと比較すると復讐を題材にした作品のそれとしては欠陥があるように感じる。

冒頭の拉致監禁に至るまでのチェミンスクの過去の来歴について何一つ語られていないため観客の立場からすると復讐者であるミンスクに感情移入を行うためのフックが存在せず、復讐者に肩入れできず居心地の悪い宙ぶらりんな感情になる。これはチャヌクの意図である。

 

物語の最終盤、真犯人であるユジテから拉致監禁の意図が語られる。

学生時代、彼は実の姉と近親相姦の関係にあったがその関係を知ったミンスクはそれを悪意なく言いふらしそれにより姉が自殺に追いやられた挙句、言いふらした当本人がそれを忘れていたための復讐だと

真相の開示により復讐の主体はそもそもミンスクの側になく、最終盤までその真意が隠されていた黒幕の側にあったのだ。*2

 

とこのように復讐を題材にした作品は構造レベルで瑕疵を抱えており、本記事ではそれに解決策を与えた二作を挙げたがあえて解決せず敢えてその瑕疵を拡張、拡大した異形の作品群もまた存在しており、それについては別記事で書くことにする

 

 

*1:地上波で放送していたところを前情報なしで見ることになる、というケースもあるがここではそれについては触れない

*2:ここでオイディプス王の神話をなぞらえたかのような近親相姦と忘却の主題に立脚した復讐がなされるのだがそれについても機会があればなにか書きたい