フェイブルマンズについての覚書

スピルバーグのフェイブルマンズを見てきたのだがこれがちょっと信じられないぐらいいい映画だった。なんというか泣かせるつもりのないシーンでもつねにちょっと泣きそうになりながら見ていた。

この映画はシーン一つとっても一言で表現させることを許さないような多義的な意味を含有量するようなところがあり、準備なしにちゃんとした感想を書こうとするとすごい勢いで破綻しそうなのでこの記事では取り敢えずざっと感じたことを洗い上げていく。

・両親に連れられてセシル・B・デミルの『地上最大のショウ』の列車の衝突シーンを『目撃した』サミーことスピルバーグが初めて与えられた異質なものとしての暴力を消化するために鉄道模型と8mmフィルムで自分が見た光景を再現しようとするシーン。

これは変質的な暴力描写にオブセッションを持つスピルバーグの己の作家性に対する自己言及であり、放映当時それを『目撃した』観客が逃げ出したともいわれるリュミエールの『列車の到着』の引用かつその引用を通した映画史に対する言及である。

ここでスピルバーグは映画史と個人史という二つのレイヤーを不可分なものとして語っている。

・またこの冒頭部分は映画を撮ることとそれを見せることの『呪い』と『祝福』について語られてもいる。サミーは列車の衝突という刻まれた『呪い』を映画として撮ることで『祝福』に反転させた。この構図は映画全体に通奏低音として鳴り響くことになる。

・作中作の戦争映画でサミーは敵であり悪役であるドイツ軍の隊長をその表情で『人間』として演出する。これは終盤のプロムで撮影した映画に対応している。

・中盤サミーが邂逅することになる映画業界で働く祖母の兄は一目見て「こらあかん」となるちょっと、というかかなりやばい人に見える。反面恐ろしく幸福な人物にも見える。上述した『呪い』と『祝福』両方にその身を苛まれている、ある種神話的な人物にも見えてしまう。

・この映画における撮ることの『呪い』という側面が最も強く出ているのは家族とのキャンプ映画の編集シーンだろう。撮るということは残酷だ。こうあってほしい、こうありたい、そのような願望を蹂躙してみたくもないものをありのまま叩きつける。

幼少期のころ撮り、見てもらった列車の衝突の8mm映画と同じシチュエーションでそこで撮影してしまったものを母に突きつけることになるいう『祝福』が『呪い』に反転する。撮るということについての地獄。

・プロムの映画上映会のシークエンスについて。ここの劇中劇においてサミーは

『サルよりも頭の悪い体育会系のクソバカのユダヤ差別主義者』であり自分をいじめていた相手を『でもお前みたいなカスでも映画を撮る間だけは好きになろうと思った』と美しい存在として演出する。

これに対するレイシストのその映画により得をしたにもかかわらず怒り出したかと思えば泣きそうになったり、これまでの自分の価値観では消化できないものに触れてしまった、得体が知れなく不安にさせるが何か神聖なもののに触れてしまった、というような表情、たたずまいが素晴らしい。そしてこの反応は初めて映画を『目撃』したサミーの反応と相似形をなしている。(更にいうとこの事件をきっかけに親友になる、みたいな展開ではないのが素晴らしい。)

・最終盤のポールダノ演じる父親が背中を押す一連の流れの美しさ。ここに来てタイトルの『フェイブルマンズ』の意味を理解する。

・最後の最後でデヴィット・リンチが演じるあの人が登場。ここはすごい。なんというかそれまで歴史映画だったのがいきなり神話に接続されてような凄味がある。

・この映画は引用された映画、作中作、自伝パート、によりこの映画は構成されている。それぞれパートが互いに補完しあい、相互に批評として機能している。

映画は(芸術はと言い換えてもいい)人生を救う、なんて生温い視点をスピルバーグは拒絶する。映画は時に呪いをかけるし必ずしも人を幸福にしない、損得の論理を超えた衝動、実人生と触れてきた芸術とそれにまつわる快不快、全てをひっくるめた総体としての映画についてスピルバーグは語ろうとしているのだ。