シン・仮面ライダー

・奇妙な映画体験であった。懐古趣味に溢れた映画のようでありつつ何か新しいテーマを語っているようでもあり、監督の過去作の再生産であると同時にそこから大きく逸脱する映画であった。

この感覚は映画を見終えて感想を出力しようとした時、その感覚はより一層強まってくる。というより、この映画に対する否定的な、あるいは肯定的な感想を読んでいくたびになにか混乱してくる。そこで書かれている批判的な感想は普段の私の評価基準からすると大いにまっとうな意見に思えるしそれらの否定的な感想を書いているのがなぜ自分ではないのか?

むしろ自分が今まで見てきた映画に対して下してきた評価の一貫性を考えると私こそがそのような否定的な文章を書くべきではないのか?

だがなにか首肯しがたいものがある……いやそれどころか私はこの映画を大いに気に入ってしまっているし、なによりもこの映画はこの映画に纏わる肯定否定ひっくるめた議論の、そのはるか先を見ているように思えてならないのだ。

 

・若干の、というかかなりの気恥ずかしさを覚えながら書くのだけれどもこの映画を観て、私は5回泣いた。若しくは涙ぐんだ。序盤の山場で泣き、中盤の山場で泣き、終盤のあのシーンで泣き、ラストショットで泣き、映画を見終えた帰り道に『孤高 信頼 継承』のポスターを目にしてまたしても涙ぐんだ。

・この映画で庵野監督の能力が開花した、若しくは映画を見る側の私が再発見したこととして庵野秀明は誰かが泣くショットを冴えた感覚を見せる作家だ。

劇中において誰かが泣くシーンをフレームに収めるときに決してカメラを寄せず、それを言葉により過剰に演出せず、シン・仮面ライダーでは被写体との適切な距離とそれを映す適切な時間で「泣く」という行為を演出している。私自身の傾向としてそこにいたるまでの文脈も含めて「泣く」事を適切なやり方で演出されることに脆弱性があるので(去年だとドラマだけど鎌倉殿がこの辺マジでうまかった)これが映画の評価を大きく上げているところがある。

・ロケーションが良かった。今作のCGは粗い部分も多いのだがロケーションの選定が良く、構図も完成されていたためか不思議と画面に安さを感じなかった。ここら辺は精緻なCGでロケーションにこだわりのないMCUとは対照的だ。

・そしてこれもこの映画を観て再発見したこの映画の美徳の一つなのだが庵野秀明という作家は音楽の使い方において冴えた技巧を魅せる作家だ。例えばシン・ゴジラの会議シーンがなぜあそこまで面白かったのか、ということを考えると舌を嚙みそうな長台詞を適切なやり方で快楽原理に沿った形で編集・演出が行われていたからだろう。例えばTV版エヴァの発進シークエンスののBGMがなぜここまで耳に残るのだろうか、ということをあの映像と紐づけられていたゆえに記憶に残ったのではないだろうか?

・また怪人達(本作ではオーグメントと呼称)のキャラの立ちも素晴らしかった。新しいオーグメントが現れ、短い出番で異常性を発揮し、死んでいく。これはライダーバトルが全面に出ていない時代の、怪人達の存在感が濃かった昭和ライダーの面白さを上手く移植しているように思える。

 

・ここで一度、意図的に話を脱線させる。この映画の需要、批評のされ方だ。シン・仮面ライダーは賛否両論毀誉褒貶の激しい映画だ。

・だが私としては賛否のどちら側の意見も違和感を覚えるものが多いのだ。賛の側は庵野秀明の才能及び趣味性故にこの映画は素晴らしい、仮面ライダーへのリスペクトに溢れた作品であるからこそ素晴らしいと語り、そのような作品の受容の仕方は私ははっきり言って嫌悪感があり、否定されるべきものだと考えている。*1

・否の側はそれに対してこの映画は懐古趣味でありテーマは(エヴァがそうであったように)使いまわしの私小説的な内容でありそれ故に評価するべき作品ではない、と語る。

・私の感じる違和感の正体は称賛する意見も否定する意見もあまりにも作家主義的であるということだ。

作家主義的な批評に対する漠然とした不信感をもっている。映画製作は多数の利害関係者の集団による集団作業である。そのなかで監督がイニシアティブをを握っている、というのは確かとしても映画製作のその結果を監督個人に還元するのはあまりにも無理があるのではないだろうか?

現に池松壮亮はインタビューの際変身シーンを撮影する際、ライダーに思いれのあるスタッフから代わる代わる指導を受けた、と発言しているし(この発言からこの映画の懐古趣味的な部分は必ずしも監督個人の趣味性だけに還元できないと判断できる)庵野秀明本人は(どこまで信じるかは置いておくとして)ドキュメンタリーで原点をリスペクトしつつも新しいアクションを、と語ってもいる。

・非作家主義的な批評を行おうとするとスタッフ一人一人にヒアリングをし、そこで収集したデータを比較検討し矛盾を排除し、そのうえで制作現場ではどのような権力構造で誰が力を持っていたのか、どのようなパワーバランスで制作現場が回っていたのか、という歴史学を行うような批評になる、と私は考える。

 

 

・しかしそのような批評を行うには当ブログでは悲しいほどに力不足である。そのため当記事ではこの映画の美徳を語るにあたって必ずしも監督個人に還元できるか怪しい点についてはその都度言及していくことにした。話が脱線したので本題に戻る。

 

 

・今作に対する批判のなかでこの映画ではヒーローに救われる市政の人々の姿が描かれていない、というものがあった。申し訳ないが周回遅れの、的の外れた意見としか感じられなかった。

・近年のヒーロー作品で悪と市政の人々がどの様に描かれたのか、いくつかの例を恣意的に抜き出してみよう。

・例えばTHE BATMANではそれらはどう書かれたか?結論から言うとこの映画は明確な悪とそれに脅かされる無辜の人々、という旧態依然とした構図の先を描いている。

ダークナイトのジョーカーのようなカリスマ性のある思想犯はこの映画には登場しない、THE BATMANはあくまでも際限なく悪を排出する格差構造を丹念に追っていく。社会の下層のものも上層のものもそれぞれが違ったやり方で凡庸な悪として振舞い、それがさらに状況を悪化させていく、というどん詰まりそのものな状況を表現することに成功している。

・例えば仮面ライダーBLUCK SUNでは悪と市政の人々の関係はどの様に描かれたのか?この作品の最大の悪といえるルー大柴演じる総理はあくまでも状況にコミットした故に権勢をふるっただけの存在として描かれているし、市政に人々も怪人差別の構造を維持している、決して無辜とは言えない存在として描かれている。

・近年の、同時代性を意識しているヒーロー作品を追っていくと明確な悪とそれに脅かされる無辜の人々などという構図はとっくに古びている、と言わざるを得ない。

・本作のSHOCKER、Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling*2は深い絶望を抱えた個人を救済することで人類全体の幸福度を底上げすることを目的に、選ばれた人間にオーグメンテーション(改造手術)及び改造手術に耐えるための洗脳を施すことで幸福を実現するための手段を供給する、という方針で活動している。

・SHOCKERの上級構成員であるオーグメント達は改造前は深い絶望に打ちひしがれた無辜の被害者であり、無辜の被害者という立場からの脱却であるオーグメント手術の過程で施される洗脳により元々の自我は踏みにじられ、最終的には自ら絶望を振りまく悪に成り果てる、という両義性を持った存在である。

THE BATMANがそうであったように、仮面ライダーBLUCK SUNがそうであったように今作は悪とそれに脅かされる無辜の人々という旧態依然としたカテゴライズのはるか遠くを見ている。

 

・シン・仮面ライダーにおいて庵野秀明は積極的に自分のコントロールが効かない独立した諸要素を作中に盛り込もうとしている節が見受けられる。

・今作のストーリーラインは石ノ森章太郎の漫画版仮面ライダーの前半部分を参照し、ドラマ版、漫画版共にフェードアウトした緑川ルリ子を本郷、一文字に並ぶ主人公として再構成を行っている。ここで行われていることは漫画版及びドラマ版の脱構築であり、エヴァのような監督の私小説的的な要素はあまり入り込む余地がなく、全体の雰囲気は石ノ森章太郎作品的な雰囲気を纏っている。

 

・今作の本郷猛は原点(漫画版、ドラマ版)と比較してナイーブで内省的な碇シンジのような庵野秀明的なヒーローとして描かれていて、碇シンジがそうであったように『人と一緒にいたいのに人が怖い』というハリネズミのジレンマ的な悩みを抱えている。

・今までのエヴァにおいて碇シンジ(父である碇ゲンドウも同様の悩みを抱えている)

はこのジレンマをどう解消したのか?と考えると歴代作品では実はどれも解決していない。TV版ではシンジが誰かとのダイアローグを通してではなくモノローグで語り自己完結し、旧劇場版ではモノローグで自己完結して、自己完結したその足で他者であるアスカとかかわろうとして拒絶され、半ギレで首を絞め、新劇場版ではシンジはそのテーマを投げ出して代わりにゲンドウがそのテーマを担ったのだがこれも結局ダイアローグを通してではなくゲンドウが「シンジ、これからは対話の時間だ(( ー`дー´)キリッ)」と切り出したのにも関わらずあっさり論破され、結局対話を放棄したように一方的にまくしたてる形で自己完結をしている。

エヴァで提示されたハリネズミもジレンマのテーマをエヴァ本編は結局煙にばかりでほとんどまじめに取り合っていないのだ。

・翻ってシン・仮面ライダーはこれに明確に向き合っている。最終決戦において本郷は同じジレンマを抱えながらも敵対する仮面ライダー0号とのダイアローグを通してそれに答えを出している。

・緑川ルリ子は今作において前半部の主人公ともいうべきそんざいであり最も原点から改変を加えられた人物である。原点だと比較的軽く描かれていた本郷から一文字への継承というテーマはルリ子の存在により作品全体のメインテーマに昇格している。

・今作の二号ライダー、一文字隼人の評価の高さについて考える。シン・仮面ライダー版の一文字はどちらかというと今作に批判的なものからも評価されることが多いように見受けられる。何故か?と考えると一文字隼人は石ノ森章太郎の漫画版の描写にかなり正確である。それは要するに非庵野的なヒーローであり、庵野秀明本人の引き出しからは到底出てこないような、───具体的に言うと勝ち目がないと分かった上で知り合ったばかりの本郷に付き合い死地に向かうぐらい──「陽」のヒーローだからだろう。

・内省的でナイーブな庵野秀明的なヒーローである本郷猛と爽やかな陽の非庵野的なヒーローである一文字、そして最も原点から改変された存在であり原点で描かれたテーマをより強く補強した緑川ルリ子。

・言い換えれば庵野的な本郷、石ノ森的な一文字、そしてその二つを結ぶ庵野的でも石ノ森的でもないルリ子、の三位一体でこの映画は構成されておりそれ故にこの映画は決して不毛な再生産だけの作品にも陥らず、原作ファンに阿っただけの作品にも陥らず、既視感を感じさせつつも新しい景色を切り開いた作品になったのだ、と私は考える。

庵野的なヒーローの本郷と非庵野的なヒーローである一文字が一人で二人の仮面ライダーになり*3、サイクロンで疾走するラストショットは今作を象徴している。

・そして監督自身のテーマに切りをつけその先に進んだ本作は後の世で庵野秀明のフィルモグラフィを鳥瞰した際に重要な転機と見なされるであろうと予想している。

 

 

 

 

 

*1:具体的に言うとゴジラKOMとかゾンビランドとか

*2:インタビューなどを読むとSHOCKER関連の設定は山田胡瓜の仕事による部分が大きいと思われる。

*3:よく考えると仮面ライダーWの設定って漫画版からの引用か?