ぼっち・ざ・ろっく!とチェンソーマン

まず一つ言っておくとこの記事はぼっち・ざ・ろっく!は前期の覇権アニメに!!!それに比べてチェンソーマン大爆死!!!みたいな露骨なPV数稼ぎの卑しい人間が書き、卑しい人間が読むような記事ではない。

というかチェンソーマンのアニメ自体演出やらなんやらで方向性に疑問を持つところはあれど*1あれはあれで、少なくともアニメ単品としては一貫性があったと思うのでアニメだけ見たような人たちはそこそこ満足しているのでは?と思っている。

とは言え同じ原作あり作品でぼっち・ざ・ろっく!チェンソーマンでなぜここまで評価に差が出たのか?*2と考えると原作の媒体の差、というところが一番大きいのではないだろうか?と考えた。

 

具体的に言うコマ割りによる演出を重視するストーリー漫画とコマ割りによる演出をさほど重要視しない4コマ漫画の差*3、ということになるだろう。

 

チェンソーマンはストーリー漫画であり、コマ割りを意識した演出を多用している。

 

原作の特色としてコマ一つ一つを画面比率を柔軟に変化させることのできるフレームととらえることにより映画的であり漫画的でもある演出を実現させている。*4

映画が作られる際に、どんな比率画面を選択するか、どのような戦略で編集作業を行うか、ということをチェンソーマンの原作では映画を編集するようにどのようににコマを割るか、ということを意識されながら作られている*5

 

ぼっち・ざ・ろっく!の原作漫画は4コマの形式が採用されている。

4コマ漫画はストーリー漫画と違いコマ割りに演出を依存していない。ストーリー漫画の中でもとりわけコマ割りに演出を大きく依存しているチェンソーマンとは真逆の形式と言えるだろう。

 

この二つの原作をそれぞれアニメ化するにあたりどのようなことが起きるだろう?

チェンソーマンをアニメ化する場合、まず必要になるのは原作において漫画でしか実現不可能な演出を一度外さなければならない。その上で原作のストーリー部分を再構成しアニメという媒体で機能するように一から演出を構築する必要がある。

漫画でしかできない演出と原作そのままでも採用できる演出を分別する→漫画でしかできない演出をパージする→ほかの演出、脚本との兼ね合いを考える再構築する、という足したり引いたり、二度手間三度手間かかってしまう。

 

ぼっち・ざ・ろっく!をアニメ化するにあたりどのようなことが起こったのか?

4コマという形式は、例えばアニメーターの視点で見るとそれ自体が作品であり、絵コンテとして解釈解釈できるのではないだろうか?4コマに一度オチをつける、という4コマ漫画漫画の制約をうまく働いたのかもしれない。アニメ化にあたり原作を忠実に表現すればテンポのいいギャグに、ストーリーを盛る場合はコマとコマの行間を補完することで引き算の必要なしに、制約の少ない状態で演出を足し算することができたのかもしれない。

ストーリー漫画のアニメ化と違い原作漫画にしかできない演出を引き算する必要がない→その分リソースが浮く→浮いたリソースを適切なところにシューーーっっっ!!できる、

→最高のアニメが生まれちまったな!!

 

ということで自分の結論としてはコマ割りに演出を大きく依存している漫画はアニメ化にあまり向いておらずその反面そこに依存していない4コマ漫画は向いている、ということでした。*6

また今回の記事を書いていてほかの4コマ漫画原作の作品はアニメ化にあたってどのように脚色されているのか、ということも気になった。例えば高畑勲が監督したじゃりン子チエを原作と比較したら何か得るものがあるのかもしれない。

 

 

楽天市場

*1:テンポの良さゆえに週刊連載時に面白かった作品にもかかわらず進展に難がある、とかすべての画面で作画がぬるぬるしていてメリハリがない、とか

*2:監督本人のビッグマウスも拍車をかけているのだろうがチェンソーマンの失敗を監督個人の采配に還元するのは浅慮だろう。アニメも映画も様々な利害関係者により制作されるので監督とは外部のあれやこれやに制限されているだろう

*3:ニチアサ以外はやってます、などの例外もある

*4:スプリット画面の多様により映画でありながら漫画的な画面構成を実現させているフライシャーの絞殺魔はその逆のパターンといえるかもしれない

*5:断言しちゃったけど要出典だわこれ

*6:自分で言っておいてなんだけれどもいくらでも例外が見つかりそう。