リコリスリコイルは本当にガバガバリコイルだったのか?

リコリスリコイルのガバガバさは周知のとおりだと思われる。

第一期終了後の今でこそガバガバ脚本であることは周知されているが第一話放映時は違った。

第一話冒頭、孤児を養成して殺人技術を身に付けさせた少女暗殺者「リコリス」を数多く擁し、普段は女子高生に偽装した姿で市中に潜伏させ、犯罪者を極秘裏に抹殺・消去する極秘の治安維持組織DAの存在とその非合法な暴力により治安を保たれる世界のありようについて、飄々とした喋り方のどこか達観した雰囲気を醸し出す美少女主人公である鏑木千束の口から語らせ一通り語らせた後に「……なんだってさ♪」と統括することで(俺の観測範囲では)少なくない数のオタクが「……これはPSYCHO-PASSのような社会派アニメだ!深いテーマ性が語られるに違いない!」ときゃっきゃっしてたし俺もきゃっきゃっしていた。

だが終盤に近付くにつれ脚本のガバガバさが前面に押し出され序盤で語られたテーマ性は後景に退き何も解決していないにも関わらず「ちさたきイチゃつかせて最後にOP流せば実際には何も解決していなくても一件落着感出るやろ!!がはは!!」と言わんばかりの最終回を迎えるにあたり俺の観測範囲のオタクたちは「……まあ百合はよかったしガンアクションもよかったからトータルで見ればそこまで悪くなかったよ……」とテンションが下方修正され俺のテンションも下方修正された。

 

という感じだったのだが最近になってある一点、前提を覆せば設定面はともかくテーマに関しては一本筋が通るのでは?と思い立った。

その一点とは制作側は飄々とした喋り方のどこか達観した雰囲気を醸し出す美少女主人公である鏑木千束の事を正しいことを言っているキャラクターとして設定していない、と考えればこのアニメは少なくともテーマ面では大いに整合性のある作品になるのではないだろうか?

 

人間はあきれ返る程にアジテーターに弱い。一人の例外なくアジテーターに弱い。

例えばファイトクラブを例に挙げるとタイラー・ダーデンは卓越したアジテーターである。卓越したアジテーターであるがゆえにタイラーの意見=フィンチャーの意見であり、作品においてその思想は肯定されている、という感想を読解されることが多い。

だが作品においてタイラーはエドワード・ノートンに憑りついた亡霊がごとき存在であり、ノートンは終盤自分の頭を打ち抜くことでその亡霊を祓い、真の自分を取り戻しエンディングを迎える。このように作品の文脈を通してみるとタイラーの思想は祓うべきもの、否定されるべきものとして描かれている。

 

リコリスリコイルの話に戻ると視聴者と制作側で鏑木千束というキャラクターについてコンセンサスが取れていない可能性が出てくる。視聴者は鏑木千束の不殺という信念、飄々とした話し方、達観した雰囲気、たきなへの対応等々から溢れ出るキャラとしての魅力から制作側も作品世界において正しい存在として描かれている、それ故に鏑木千束の意見は制作側の意見でありそれ故に千束に意見のガバガバさを作品のテーマのガバガバさ、と判断されてしまったのではないだろうか?

 

実際作品世界における鏑木千束に辿った軌跡を追っていくとこの疑いは益々強まってくる。鏑木千束の信念である不殺は心臓に疾患を持っていた自分を救ってくれた名も知らない恩人に対する素朴なあこがれに起因するもので、しかもその信念も最終回において対立する思想の持ち主(DAによる非合法の暴力を否定し世界のバランスを取り戻す)である真島を殺害(実際には生きていたので主観的には)することで破綻をきたす。

達観した雰囲気及び「世界がどうとかわからんし身の回りの人を~」という思想部分に関しても人工心臓の問題により20歳までには死ぬ、という自覚のためだと考えれば得心がいく。若くして死ぬことが確定しているからこその達観であり、若くして死ぬことが確定していれば世界や社会にコミットする必然性もなくなる。そしてそれに関しても思いがけず心臓問題が解決され、若くして死ぬ、という前提もまた破綻をきたす。

 

というように本編の流れをよく見ると鏑木千束は作品世界において肯定されているわけではない。というか本人が自明の理、としていたことは作中において入念に否定されている、といっても過言ではないだろう。

ではリコリスリコイル一期において誰が正しいとされているのか?千束の有り様に関してはこの様に入念に否定されている。それと対立するテロリストの真島さんに関しても最終回で失明というペナルティを負わせられていることから無条件に肯定されているわけではない。千束の育ての親であるミカは娘を救うためにもう一人の育ての親といってもいい吉松を殺害しその死を隠蔽した。実のところ誰一人として全肯定されていない、善悪が宙ぶらりんのまま話を終えているのだ。

 

リコリスリコイル2期でどのような話が展開されるのか?ということについて考えると1期で自分の軸を見失った鏑木千束が自分でもそれを再発見していくものになるのでは。と考えている。序盤以降後景に退いていたテーマ性が再び前景に舞い戻る契機になるはずだ。

自分でこう書いたけど2期最終回も70%位の確率で「ちさたきイチゃつかせて最後にOP流せば実際には何も解決していなくても一件落着感出るやろ!!がはは!!」と言わんばかりの最終回を迎えると思っている