シン・仮面ライダー 感想 補

前回の感想の時に書き漏らしたところを書いた。

BGM

シン・仮面ライダーは当然のように初代ライダーのリブート作品であり初代ライダーと言えばまだある時期からすっかり存在感の薄くなってしまった怪人が活躍していた作品でもある。

それ故に今作では怪人であるところのオーグメントとの戦いをどの様に演出するか、というところに心血が注がれている。例えばBGMの使われ方だ。

オーグメント達は初代ライダーの怪人たちが潜んでいたような秘密基地、アジトを持ちそのアジトを踏破し、オーグメント戦前のBGM<KUA>が鳴り響き戦闘に至る、という流れを今作は繰り返し、繰り返していくことで特定のBGMと展開とを紐づけ、音楽と一塊になった展開、オーグメントが現れ、キャラを立て、ボス戦BGMを流し、撃破される、それ自体がワンセットであり固有のリズムであり、その作り上げたリズムを毎回少しずつ変奏させていく.........このようなある種の条件付けにより観客の感情を音楽を鳴らすタイミングで動かすことに成功している。

そのような演出そのものは今作固有のものではない、というか多くのTVのヒーロー作品において使われているものだが音楽とそれに合わせた編集においてを力を発揮する庵野秀明の手腕がここで最も生かされたと言えるだろう。

 

キッチュなものの美学

ドキュメンタリーにおいて庵野秀明が語っていたことだが「観客はMCU映画と同じ料金を払いこの映画を見に来る。それより劣る予算でどのように差別化するのか」「スタッフにもファンにも原典のイメージを大事にしている者も多いのでそこは裏切らないようにしたい」という事を語っていたが、実際の映画においてキッチュなものの美学を再発見する、という形で成立させた。

それが顕著に表れているのがアバンタイトルの1号による戦闘員鏖殺シーンだ。

原典のエピゴーネンであるかのような構図、音楽、カメラワークで1号が登場する。

この時点では単なる懐古主義でしかないがその後崖から飛び降りた1号による、ボーンシリーズ的なカット割りと暴力描写のたびに血を吹き出し、頭部が粉砕される戦闘員、という現代的なアクション・暴力演出を盛り込むことで現代的な暴力描写により初代ライダーの今となってはキッチュな映像表現を対比させることでキッチュなものの美学を再発見している。

これと近いことはタランティーノがデスプルーフで行っていることが近いだろう(懐古趣味的な映像表現に現代的な暴力描写を組み込むことによる異化効果)

 

キャラクターの一貫性

全体的に駆け足気味なので伝わりにくいがキャラクターの一貫性があり強度が高い。

クモオーグを例にとるとクモオーグはジッパーのついたレザージャケットを着こなし常に手を後ろに組んだカッコイイポーズをとっているのだが、緑川博士殺害においてジャケットの下から隠し腕を展開するシーンにおいてジッパーも特徴的なポーズもデザイン的な観点のみから要請されたものではなく、設定的必然性があったことが判明する。

設定と紐づいた、必然性のあるデザインはそれ特有の美しさを持つ。

0号のキャラクター描写も強度が高い。本郷との邂逅において一方的にまくしたてた後「見なかったことにしよう」と歯牙にもかけない、という描写は初見だと観客からは森山未來の宗教的カリスマ的な振舞いかたから超越者特有の傲慢さなのだと、ひとまず理解されるが、終盤の展開において0号もまた本郷と同じ悩みを抱えている弱い人間だ、と露見するにあたって初期の超越者然とした振る舞いはコミュ障のマシンガントークであった、と遡及的に理解されなおすことになる。

 

衣服について

今作のライダー及びオーグメント達は怪人の素体+キャラクター性にあった衣服、という形でデザインされている。

例えば一号のライダーのスーツの上から羽織ったコート、クモオーグのレザースーツ、ハチオーグの着物、という風にスーツの上から羽織る形で固有のファッションを身にまとっている。衣服(素材デザイン質感ディテール)に対するフェチズムを感じさせる。

素体のスーツと外付けのファッションにより固有の美学を得ることに成功している。

 

 

 

流石にちょっとこれは、なところ

ショッカーライダー戦は信者目線でも厳しい。0号戦の泥仕合は殺し合いではなく、救うための戦いなので面白くなくてもいい、というかテーマ的に面白くしないほうがいいのだが、それを踏まえて考えると直前のショッカーライダー戦は実写でやるべきであったし、そのほうがアクションに緩急が付き0号との泥仕合がテーマに沿ったものだということが伝わったと考えられる。

 

 

爆発と泡

視覚的な快楽を優先した爆発による怪人の死が演出として確立される以前の最初期の怪奇路線の仮面ライダーにおいて描かれた破れた怪人が泡になる、という描写の再解釈、及び新しい文脈の付与が行われている。

原点ではおどろおどろしさを演出するものだった泡になる描写をそのままにエモーショナルな文脈で再解釈されている。

最初の敵であるクモオーグが破れ泡になる描写は原点の引用の意味合いが強かったが蝙蝠、蜂、KKと続いていくうちににおどろおどろしさよりもオーグメントの哀愁と儚さ、という意味合いが強くなっていき最終盤の展開においては原点の文脈を振り切り、哀しく美しいシーンを演出することに成功している。

時代の徒花として消えるはずだった描写を今作固有の美学により再び命を与えることに成功している。

またシン・仮面ライダーのこの取り組みに近いことはギレルモ・デルトロがシェイプオブウォーターで美女をさらう半魚人、という構図をロマンスの文脈で再解釈を行っている。