平清盛全部見た

というわけで大河ドラマ平清盛を全部見終えたのでその感想を。とは言っても見終えたのが結構前なので記憶に残っているところだけ。それと弊ブログは大河ドラマを体系的に見れているわけではないので事実誤認等が発生するかもしれないのでもしこれは変では?というところがあればご指摘していただければありがたいですね

 

断片的な感想

・今作の特色を挙げると演出面では時間と空間を横断するショット、作劇面では主人公の負の側面から目をそらさず、闇堕ちもとい老害化を描いている、という点にある。

・今作は時間と空間を横断するショットが頻発し、それが技術に淫するのではなく脚本と絡み合い十全に機能している。

・今作は平家滅亡の報を受けた頼朝が最大の敵であり、武士の世を作った先駆者でもある平清盛の人生を回想、という形式を採用している。

・通常物語をかたられる際、過去から未来という直線的な時間処理が採用されることが多い。今作では過去と現在を往復する、複雑な時間処理が採用されている。

・未来からの回想形式がもたらしたものの一つとしては平清盛という毀誉褒貶相半ばする人物を描くうえで極度に美化もせず、かといって悪魔化もせず描くことに成功している点であろう。頼朝のナレーションはある後世からの批評であり、その後世からの批評という形式により清盛もその敵対者もフラットな視点で描かれている。

・今作の清盛は白河院のご落胤であるという説を採用しているのだがこの白河院老害、若しくはもののけとして扱われており、死後も影響力を発揮し続けている。清盛が育ての親であり尊敬していた忠盛と自分は血がつながっておらず、邪悪な最高権力者であり軽蔑していた白河院の子であると知り、アイデンティティの危機を迎えるがそれを克服し、武士としてのアイデンティティを再獲得する、という序盤の山場から始まり中盤の自分と同じく白河院の血を引く後白河法皇との暗闘、事実上の最高権力者になった清盛がすっかり自分が憎んでいたはずの白河院と似通ってしまった=もののけと化してしまい、やがてそこから開放されるカタルシスのあるクライマックスを迎える。

・特に印象に残ったシーンを数点挙げると病に苦しむ清盛が見る、長い夢のシーンある。作品自体が頼朝の回想という形式のなかで更に夢を見る清盛の回想が入れ子になる、という複雑な構成もさることながら今作の特色である時間と空間の横断も夢特有の時系列の混乱を演出するのに十全に機能している。

・終盤に向かいもののけと化していく清盛に反して頼朝が若き日の清盛のように、武士の未来を体現するような存在になっていく中、離れた地にいる清盛と頼朝が空間を超え、切り返しショットという文芸映画的な演出があるがこのシーンは本作の作劇・演出の総決算だと言えるだろう。

・最終話において冒頭で清盛がなくなり、平家が滅び、その時点で頼朝のナレーションも終わるのかと思いながら見ているとその後の自分自身の死を語り、更に未来に飛び鎌倉幕府滅亡まで語ってしまう、という凄まじい時間処理演出があるのだがその遠未来において清盛の亡霊が波の下の都で滅んだ平家の一族に再び邂逅し物語の幕を閉じる*1

・これは想像だが近年の犬王、アニメ平家物語は今作に深く影響を受けているのではないだろうか?題材は近しいし、どちらも時間と空間の処理に工夫があり先行作品として参照された可能性は高いと思うのだが。

 

 

 

 

 

 

シン・仮面ライダー 感想 補

前回の感想の時に書き漏らしたところを書いた。

BGM

シン・仮面ライダーは当然のように初代ライダーのリブート作品であり初代ライダーと言えばまだある時期からすっかり存在感の薄くなってしまった怪人が活躍していた作品でもある。

それ故に今作では怪人であるところのオーグメントとの戦いをどの様に演出するか、というところに心血が注がれている。例えばBGMの使われ方だ。

オーグメント達は初代ライダーの怪人たちが潜んでいたような秘密基地、アジトを持ちそのアジトを踏破し、オーグメント戦前のBGM<KUA>が鳴り響き戦闘に至る、という流れを今作は繰り返し、繰り返していくことで特定のBGMと展開とを紐づけ、音楽と一塊になった展開、オーグメントが現れ、キャラを立て、ボス戦BGMを流し、撃破される、それ自体がワンセットであり固有のリズムであり、その作り上げたリズムを毎回少しずつ変奏させていく.........このようなある種の条件付けにより観客の感情を音楽を鳴らすタイミングで動かすことに成功している。

そのような演出そのものは今作固有のものではない、というか多くのTVのヒーロー作品において使われているものだが音楽とそれに合わせた編集においてを力を発揮する庵野秀明の手腕がここで最も生かされたと言えるだろう。

 

キッチュなものの美学

ドキュメンタリーにおいて庵野秀明が語っていたことだが「観客はMCU映画と同じ料金を払いこの映画を見に来る。それより劣る予算でどのように差別化するのか」「スタッフにもファンにも原典のイメージを大事にしている者も多いのでそこは裏切らないようにしたい」という事を語っていたが、実際の映画においてキッチュなものの美学を再発見する、という形で成立させた。

それが顕著に表れているのがアバンタイトルの1号による戦闘員鏖殺シーンだ。

原典のエピゴーネンであるかのような構図、音楽、カメラワークで1号が登場する。

この時点では単なる懐古主義でしかないがその後崖から飛び降りた1号による、ボーンシリーズ的なカット割りと暴力描写のたびに血を吹き出し、頭部が粉砕される戦闘員、という現代的なアクション・暴力演出を盛り込むことで現代的な暴力描写により初代ライダーの今となってはキッチュな映像表現を対比させることでキッチュなものの美学を再発見している。

これと近いことはタランティーノがデスプルーフで行っていることが近いだろう(懐古趣味的な映像表現に現代的な暴力描写を組み込むことによる異化効果)

 

キャラクターの一貫性

全体的に駆け足気味なので伝わりにくいがキャラクターの一貫性があり強度が高い。

クモオーグを例にとるとクモオーグはジッパーのついたレザージャケットを着こなし常に手を後ろに組んだカッコイイポーズをとっているのだが、緑川博士殺害においてジャケットの下から隠し腕を展開するシーンにおいてジッパーも特徴的なポーズもデザイン的な観点のみから要請されたものではなく、設定的必然性があったことが判明する。

設定と紐づいた、必然性のあるデザインはそれ特有の美しさを持つ。

0号のキャラクター描写も強度が高い。本郷との邂逅において一方的にまくしたてた後「見なかったことにしよう」と歯牙にもかけない、という描写は初見だと観客からは森山未來の宗教的カリスマ的な振舞いかたから超越者特有の傲慢さなのだと、ひとまず理解されるが、終盤の展開において0号もまた本郷と同じ悩みを抱えている弱い人間だ、と露見するにあたって初期の超越者然とした振る舞いはコミュ障のマシンガントークであった、と遡及的に理解されなおすことになる。

 

衣服について

今作のライダー及びオーグメント達は怪人の素体+キャラクター性にあった衣服、という形でデザインされている。

例えば一号のライダーのスーツの上から羽織ったコート、クモオーグのレザースーツ、ハチオーグの着物、という風にスーツの上から羽織る形で固有のファッションを身にまとっている。衣服(素材デザイン質感ディテール)に対するフェチズムを感じさせる。

素体のスーツと外付けのファッションにより固有の美学を得ることに成功している。

 

 

 

流石にちょっとこれは、なところ

ショッカーライダー戦は信者目線でも厳しい。0号戦の泥仕合は殺し合いではなく、救うための戦いなので面白くなくてもいい、というかテーマ的に面白くしないほうがいいのだが、それを踏まえて考えると直前のショッカーライダー戦は実写でやるべきであったし、そのほうがアクションに緩急が付き0号との泥仕合がテーマに沿ったものだということが伝わったと考えられる。

 

 

爆発と泡

視覚的な快楽を優先した爆発による怪人の死が演出として確立される以前の最初期の怪奇路線の仮面ライダーにおいて描かれた破れた怪人が泡になる、という描写の再解釈、及び新しい文脈の付与が行われている。

原点ではおどろおどろしさを演出するものだった泡になる描写をそのままにエモーショナルな文脈で再解釈されている。

最初の敵であるクモオーグが破れ泡になる描写は原点の引用の意味合いが強かったが蝙蝠、蜂、KKと続いていくうちににおどろおどろしさよりもオーグメントの哀愁と儚さ、という意味合いが強くなっていき最終盤の展開においては原点の文脈を振り切り、哀しく美しいシーンを演出することに成功している。

時代の徒花として消えるはずだった描写を今作固有の美学により再び命を与えることに成功している。

またシン・仮面ライダーのこの取り組みに近いことはギレルモ・デルトロがシェイプオブウォーターで美女をさらう半魚人、という構図をロマンスの文脈で再解釈を行っている。

ジャンケットバンク完全に理解した

タイトルの完全に理解した、は強気なタイトルのほうがうけそうなので方便であるが単行本購入で通して読むことによりジャンプ+で読んでいた時よりも全体像が理解度が上がった(具体的に言うと単行本購入前は「この床が熱い~~~~~~」の人で単行本購入後は初期の獅子神敬一レベルに上昇した)と思うのでメモがてら初回だと理解できなかった部分について書いて行こうと思う。ちなみにジャンケットバンクを知らない、読んでいないという人はジャンプ+で無料で読めます、この情報は無料です。

 

アンハッピー・ホーリーグレイル

初見だとマジでわからね~となっていたがサウンドオブサイレンス、ジャックポットジニー、の流れで読むとかなり理解しやすいギャンブルだった。

ざっくりいうとアンハッピー・ホーリーグレイルサウンドオブサイレンスの逆パターンであり逆ジャックポットジニーである。

サウンドオブサイレンスではゲームの過程で生じるペナルティを全て自分で引き受けゲームの仕様を調査しその情報を独占することでに対し有利を取る、という同格以上のギャンブラーに対する真経津晨の基本戦術が初めて読者に開示されたギャンブルである。

またジャックポットジニーではルールそのものに悪意を仕込む胴元である銀行側の存在により、ジャンケットバンクのギャンブルはギャンブラーVSギャンブラーではなく、ギャンブラーVSギャンブラーVS銀行という構造で成り立っている、というこの漫画固有の価値観を読者に開示している。

アンハッピー・ホーリーグレイルはこの2つの逆パターンで構成されている。叶黎明は観測を重視するそのプレイスタイルにより真経津晨の基本戦術を成立させることを困難にし、また銀行側もジャックポットジニーのようにルールに裏がある、と思わせ実は何もない、一周回って勘ぐらない方がギャンブルに勝てる、という二重の罠を張っている。

ブルーテンパランス

テンパランスもまたジニーを踏まえた上で読むと理解しやすい。

テンパランスもジニーと同じようにルールの裏を読めずに勝ち続けることが敗北に繋がる、というものだがジニーの雛形春人と違い対戦相手の天堂弓彦が事前に裏ルールを把握していたためゲームとして成立している。もっとも天堂は”自分だけがルールの裏を把握している”と思い込みその思い込み故に戦略ミスを犯したのだが。

 

ジャンケットバンクのギャンブルの全体像

この様にジャンケットバンクのギャンブルは過去のそれと連続性がありその比較の上で成り立っている、と言えるだろう。個々のギャンブルだけを見て理解しようとするのではなくそこに至るまでの全てのギャンブルの総決算として捉えるべきなのだ。

またギャンブルの内容を理解するうえでいくつかのポイントを発見した。

まず御手洗の解説はブラフである。対戦中にゲーム内容を読者に向けて分かりやすく整理してくれるが御手洗の視点は(相対的に)一般人の視点であり、作中においてその予測は覆される前提で描かれている。

御手洗暉の考察はギャンブル内容を理解するやめのものではなく、ギャンブラーの怪物具合と対比するためのものであり、演出の一部として読むと理解しやすい。

シヴァリングファイアはどうなるのか?

弊ブログ*1の予想だとオークショニアとの対比、が重要になるのではないかと考えられる。

ライフ・イズ・オークショニアはゲーム外の政治の領域において勝敗が決した。シヴァリングファイアにおいてもオークショニアの逆パターンが描かれるのではないだろうか。つまり両プレイヤーがゲーム外の政治の領域を見据えたうえで試合が進行するのではないか?

また具体的な仕様が判明していない眞鍋瑚太郎の第三種閲覧権がどの様に機能するのか?といった表層的なギャンブル内容の外部にある事柄により勝敗が決するのではないかと予想している。

 

*1:初期のラオウ並みに一人称が安定していないという指摘があったので今度からこれで統一する

シン・仮面ライダー

・奇妙な映画体験であった。懐古趣味に溢れた映画のようでありつつ何か新しいテーマを語っているようでもあり、監督の過去作の再生産であると同時にそこから大きく逸脱する映画であった。

この感覚は映画を見終えて感想を出力しようとした時、その感覚はより一層強まってくる。というより、この映画に対する否定的な、あるいは肯定的な感想を読んでいくたびになにか混乱してくる。そこで書かれている批判的な感想は普段の私の評価基準からすると大いにまっとうな意見に思えるしそれらの否定的な感想を書いているのがなぜ自分ではないのか?

むしろ自分が今まで見てきた映画に対して下してきた評価の一貫性を考えると私こそがそのような否定的な文章を書くべきではないのか?

だがなにか首肯しがたいものがある……いやそれどころか私はこの映画を大いに気に入ってしまっているし、なによりもこの映画はこの映画に纏わる肯定否定ひっくるめた議論の、そのはるか先を見ているように思えてならないのだ。

 

・若干の、というかかなりの気恥ずかしさを覚えながら書くのだけれどもこの映画を観て、私は5回泣いた。若しくは涙ぐんだ。序盤の山場で泣き、中盤の山場で泣き、終盤のあのシーンで泣き、ラストショットで泣き、映画を見終えた帰り道に『孤高 信頼 継承』のポスターを目にしてまたしても涙ぐんだ。

・この映画で庵野監督の能力が開花した、若しくは映画を見る側の私が再発見したこととして庵野秀明は誰かが泣くショットを冴えた感覚を見せる作家だ。

劇中において誰かが泣くシーンをフレームに収めるときに決してカメラを寄せず、それを言葉により過剰に演出せず、シン・仮面ライダーでは被写体との適切な距離とそれを映す適切な時間で「泣く」という行為を演出している。私自身の傾向としてそこにいたるまでの文脈も含めて「泣く」事を適切なやり方で演出されることに脆弱性があるので(去年だとドラマだけど鎌倉殿がこの辺マジでうまかった)これが映画の評価を大きく上げているところがある。

・ロケーションが良かった。今作のCGは粗い部分も多いのだがロケーションの選定が良く、構図も完成されていたためか不思議と画面に安さを感じなかった。ここら辺は精緻なCGでロケーションにこだわりのないMCUとは対照的だ。

・そしてこれもこの映画を観て再発見したこの映画の美徳の一つなのだが庵野秀明という作家は音楽の使い方において冴えた技巧を魅せる作家だ。例えばシン・ゴジラの会議シーンがなぜあそこまで面白かったのか、ということを考えると舌を嚙みそうな長台詞を適切なやり方で快楽原理に沿った形で編集・演出が行われていたからだろう。例えばTV版エヴァの発進シークエンスののBGMがなぜここまで耳に残るのだろうか、ということをあの映像と紐づけられていたゆえに記憶に残ったのではないだろうか?

・また怪人達(本作ではオーグメントと呼称)のキャラの立ちも素晴らしかった。新しいオーグメントが現れ、短い出番で異常性を発揮し、死んでいく。これはライダーバトルが全面に出ていない時代の、怪人達の存在感が濃かった昭和ライダーの面白さを上手く移植しているように思える。

 

・ここで一度、意図的に話を脱線させる。この映画の需要、批評のされ方だ。シン・仮面ライダーは賛否両論毀誉褒貶の激しい映画だ。

・だが私としては賛否のどちら側の意見も違和感を覚えるものが多いのだ。賛の側は庵野秀明の才能及び趣味性故にこの映画は素晴らしい、仮面ライダーへのリスペクトに溢れた作品であるからこそ素晴らしいと語り、そのような作品の受容の仕方は私ははっきり言って嫌悪感があり、否定されるべきものだと考えている。*1

・否の側はそれに対してこの映画は懐古趣味でありテーマは(エヴァがそうであったように)使いまわしの私小説的な内容でありそれ故に評価するべき作品ではない、と語る。

・私の感じる違和感の正体は称賛する意見も否定する意見もあまりにも作家主義的であるということだ。

作家主義的な批評に対する漠然とした不信感をもっている。映画製作は多数の利害関係者の集団による集団作業である。そのなかで監督がイニシアティブをを握っている、というのは確かとしても映画製作のその結果を監督個人に還元するのはあまりにも無理があるのではないだろうか?

現に池松壮亮はインタビューの際変身シーンを撮影する際、ライダーに思いれのあるスタッフから代わる代わる指導を受けた、と発言しているし(この発言からこの映画の懐古趣味的な部分は必ずしも監督個人の趣味性だけに還元できないと判断できる)庵野秀明本人は(どこまで信じるかは置いておくとして)ドキュメンタリーで原点をリスペクトしつつも新しいアクションを、と語ってもいる。

・非作家主義的な批評を行おうとするとスタッフ一人一人にヒアリングをし、そこで収集したデータを比較検討し矛盾を排除し、そのうえで制作現場ではどのような権力構造で誰が力を持っていたのか、どのようなパワーバランスで制作現場が回っていたのか、という歴史学を行うような批評になる、と私は考える。

 

 

・しかしそのような批評を行うには当ブログでは悲しいほどに力不足である。そのため当記事ではこの映画の美徳を語るにあたって必ずしも監督個人に還元できるか怪しい点についてはその都度言及していくことにした。話が脱線したので本題に戻る。

 

 

・今作に対する批判のなかでこの映画ではヒーローに救われる市政の人々の姿が描かれていない、というものがあった。申し訳ないが周回遅れの、的の外れた意見としか感じられなかった。

・近年のヒーロー作品で悪と市政の人々がどの様に描かれたのか、いくつかの例を恣意的に抜き出してみよう。

・例えばTHE BATMANではそれらはどう書かれたか?結論から言うとこの映画は明確な悪とそれに脅かされる無辜の人々、という旧態依然とした構図の先を描いている。

ダークナイトのジョーカーのようなカリスマ性のある思想犯はこの映画には登場しない、THE BATMANはあくまでも際限なく悪を排出する格差構造を丹念に追っていく。社会の下層のものも上層のものもそれぞれが違ったやり方で凡庸な悪として振舞い、それがさらに状況を悪化させていく、というどん詰まりそのものな状況を表現することに成功している。

・例えば仮面ライダーBLUCK SUNでは悪と市政の人々の関係はどの様に描かれたのか?この作品の最大の悪といえるルー大柴演じる総理はあくまでも状況にコミットした故に権勢をふるっただけの存在として描かれているし、市政に人々も怪人差別の構造を維持している、決して無辜とは言えない存在として描かれている。

・近年の、同時代性を意識しているヒーロー作品を追っていくと明確な悪とそれに脅かされる無辜の人々などという構図はとっくに古びている、と言わざるを得ない。

・本作のSHOCKER、Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling*2は深い絶望を抱えた個人を救済することで人類全体の幸福度を底上げすることを目的に、選ばれた人間にオーグメンテーション(改造手術)及び改造手術に耐えるための洗脳を施すことで幸福を実現するための手段を供給する、という方針で活動している。

・SHOCKERの上級構成員であるオーグメント達は改造前は深い絶望に打ちひしがれた無辜の被害者であり、無辜の被害者という立場からの脱却であるオーグメント手術の過程で施される洗脳により元々の自我は踏みにじられ、最終的には自ら絶望を振りまく悪に成り果てる、という両義性を持った存在である。

THE BATMANがそうであったように、仮面ライダーBLUCK SUNがそうであったように今作は悪とそれに脅かされる無辜の人々という旧態依然としたカテゴライズのはるか遠くを見ている。

 

・シン・仮面ライダーにおいて庵野秀明は積極的に自分のコントロールが効かない独立した諸要素を作中に盛り込もうとしている節が見受けられる。

・今作のストーリーラインは石ノ森章太郎の漫画版仮面ライダーの前半部分を参照し、ドラマ版、漫画版共にフェードアウトした緑川ルリ子を本郷、一文字に並ぶ主人公として再構成を行っている。ここで行われていることは漫画版及びドラマ版の脱構築であり、エヴァのような監督の私小説的的な要素はあまり入り込む余地がなく、全体の雰囲気は石ノ森章太郎作品的な雰囲気を纏っている。

 

・今作の本郷猛は原点(漫画版、ドラマ版)と比較してナイーブで内省的な碇シンジのような庵野秀明的なヒーローとして描かれていて、碇シンジがそうであったように『人と一緒にいたいのに人が怖い』というハリネズミのジレンマ的な悩みを抱えている。

・今までのエヴァにおいて碇シンジ(父である碇ゲンドウも同様の悩みを抱えている)

はこのジレンマをどう解消したのか?と考えると歴代作品では実はどれも解決していない。TV版ではシンジが誰かとのダイアローグを通してではなくモノローグで語り自己完結し、旧劇場版ではモノローグで自己完結して、自己完結したその足で他者であるアスカとかかわろうとして拒絶され、半ギレで首を絞め、新劇場版ではシンジはそのテーマを投げ出して代わりにゲンドウがそのテーマを担ったのだがこれも結局ダイアローグを通してではなくゲンドウが「シンジ、これからは対話の時間だ(( ー`дー´)キリッ)」と切り出したのにも関わらずあっさり論破され、結局対話を放棄したように一方的にまくしたてる形で自己完結をしている。

エヴァで提示されたハリネズミもジレンマのテーマをエヴァ本編は結局煙にばかりでほとんどまじめに取り合っていないのだ。

・翻ってシン・仮面ライダーはこれに明確に向き合っている。最終決戦において本郷は同じジレンマを抱えながらも敵対する仮面ライダー0号とのダイアローグを通してそれに答えを出している。

・緑川ルリ子は今作において前半部の主人公ともいうべきそんざいであり最も原点から改変を加えられた人物である。原点だと比較的軽く描かれていた本郷から一文字への継承というテーマはルリ子の存在により作品全体のメインテーマに昇格している。

・今作の二号ライダー、一文字隼人の評価の高さについて考える。シン・仮面ライダー版の一文字はどちらかというと今作に批判的なものからも評価されることが多いように見受けられる。何故か?と考えると一文字隼人は石ノ森章太郎の漫画版の描写にかなり正確である。それは要するに非庵野的なヒーローであり、庵野秀明本人の引き出しからは到底出てこないような、───具体的に言うと勝ち目がないと分かった上で知り合ったばかりの本郷に付き合い死地に向かうぐらい──「陽」のヒーローだからだろう。

・内省的でナイーブな庵野秀明的なヒーローである本郷猛と爽やかな陽の非庵野的なヒーローである一文字、そして最も原点から改変された存在であり原点で描かれたテーマをより強く補強した緑川ルリ子。

・言い換えれば庵野的な本郷、石ノ森的な一文字、そしてその二つを結ぶ庵野的でも石ノ森的でもないルリ子、の三位一体でこの映画は構成されておりそれ故にこの映画は決して不毛な再生産だけの作品にも陥らず、原作ファンに阿っただけの作品にも陥らず、既視感を感じさせつつも新しい景色を切り開いた作品になったのだ、と私は考える。

庵野的なヒーローの本郷と非庵野的なヒーローである一文字が一人で二人の仮面ライダーになり*3、サイクロンで疾走するラストショットは今作を象徴している。

・そして監督自身のテーマに切りをつけその先に進んだ本作は後の世で庵野秀明のフィルモグラフィを鳥瞰した際に重要な転機と見なされるであろうと予想している。

 

 

 

 

 

*1:具体的に言うとゴジラKOMとかゾンビランドとか

*2:インタビューなどを読むとSHOCKER関連の設定は山田胡瓜の仕事による部分が大きいと思われる。

*3:よく考えると仮面ライダーWの設定って漫画版からの引用か?

印象に残ったコンテンツ2023 3月

鳥 ダフネ・デュ・モーリア

・短編集、というよりは中編集で、個人的には一作品が長めの短編集お得感がないのであまり好きではないので期待値は低かったが驚くことに傑作ぞろいだった。

・陰鬱なラブストーリーでありつつ幽霊譚がごとき雰囲気を纏う「恋人」、怪談のようでいて話運びはリアリズム文学の「林檎の木」など収録作品のどれ一つとっても技巧的かつジャンル分け不可能な作品ばかりで好ましかった。

・傑作ぞろいだがどの短編が一番好きかというとやはりヒッチコックの原作にもなった「鳥」になるだろう。

・単体の脅威としては大したことがない敵にも関わらず包囲され生活に不可欠なインフラから切り離され人海戦術により消耗を余儀なくされどんどんこちら側の戦力及びリソースが摩耗していき崩壊に近づいていく、というあたりが好きで自分の理想とするゾンビ小説(ゾンビではない)を思いがけず発見した、と感じた。

 

ヨーロッパとゲルマン部族国家 マガリ・クメール ブリューノ・デュメジル

・名著。末期ローマ関連は面白い

 

ヨーロッパ・イン・オータム デイブ・ハッチソン

・前半の分裂したヨーロッパのマイクロ国家群を舞台にしたエスピオナージが終盤にかけてプリースト風のSFに転換するのだが急すぎて混乱した。

・平行世界云々は比喩表現だと思って読んでいたら比喩じゃないぽかったのも混乱をきたした。面白かったが

 

タローマン・クロニクル

・ここまでくるとホルヘ・ルイス・ボルヘストレーンウクバールオルビス・テルティウスの世界やね。文句なしの傑作。

 

ナウシカ解読 増補版 稲葉振一郎

J・G・バラードの後継者としての伊藤計劃作品を批評を読めたので良かった。

虐殺器官とかもろにバラードの「戦争熱」なので伊藤計劃について云々するならまずバラードから話を始めるべきでしょ、と思っていた身としてはこれは嬉しい文章だった。

・本書掲載の長谷川裕一論を読んで思ったのだが稲葉先生はグッリドマンシリーズの文章を書いたりしないのだろうか?問題意識が近いところにある気がするんだよな

 

H・P・ラブクラフト ミシェル・ウェルベック

・批評というより登場人物が一人しかいない小説と本人も書いていたがその通りだと思う。

 

吉田知子選集 脳天壊了

・初めて読む作家だけれどもこういう安易なジャンル分けを拒絶するような作家は好きだなぁ、と感じた。

・常寒山の一人称と三人称が横断して境目がグズグズになっていくあたり本当にすごい

 

映画

エンパイア・オブ・ライト

サム・メンデスとは相性がいい。この人の作品はあと「お家を探そう」を見ればコンプリートできる。ここで映画が終われば最高!というところでしっかり映画が終わる

 

印象に残ったコンテンツ2023 2月

銀河帝国は必要か? 稲葉振一郎

アシモフ作品を前期・後期の変遷を追いつつその問題提起と限界を論じた本。

作者本人はアシモフの作品は今の基準でみると出来は良くないのであまり読む必要はない、と言っているにもかかわらず読みたくなった。

アシモフのような既に古典となっている作家の全体像を理解させてくれるような本はありがたい

 

鳥羽伏見の戦い 野口武彦

鳥羽伏見の戦いの全体像が概観できた。

鳥羽伏見の戦いに至るまでの慶喜の戦略自体は正鵠を射たものでなおかつ幕府軍の装備の質も勝っていたのにもかかわらず軍の運用のグダグダと開戦以降の幕府側の戦略ミスの積み重ねで敗戦に向かっていくのだがこの『失敗の本質』ものっぷりが不謹慎ながら大変面白かった。

・また当時の鳥羽伏見の辺りは現在のそれと違って湿地帯だったと書かれていてそこを正確に再現された映像作品を見たいな、と思った。

 

SFの気恥ずかしさ トマス・M・ディッシュ

・自分の所属しているコミュニティに対し逆張り的なふるまい方をするオタクが好きなのでかなり楽しく読めた。

クロウリースタージョンはちゃんと読みたいな、と思った

 

天狗争乱 吉村昭

水戸藩天狗党の壊滅をドキュメンタリータッチで淡々と描いた傑作。

・びっくりするほど誰にも感情移入せず、にも拘らず利害関係が錯綜した複雑怪奇極まりない状況を整理し、書き上げている辺り吉村昭はめちゃくちゃ小説が上手い。

 

太古の奇想と超絶技巧 中国青銅器入門 山本堯

・殷の時代の青銅器の写真集。この時代の青銅器は饕餮を始めとした怪物をモチーフにしたものが多く怪獣図鑑を眺めるような面白さがあった。

 

百合小説コレクション

・アンソロジー、内容的には斜線堂有紀と南木義隆のものが良かった。

・常日頃からアンソロジーはどんな小説を集めるか、ということと同じぐらい構成が重要だと思っている身としてはこのアンソロジーは良かった。

・一作品目が今ここにある地に足についた話で徐々にリアリティラインを下げていき最後にメタフィクションも持っていく辺りどの配置にどの小説を配置すればより効果を発揮するか、ということがよく考えられていた。

 

映画

さがす

佐藤二朗すげえ。冒頭ワンショットから傑作だと確信しそれが最後まで裏切られることはなかった

 

イニシェリン島の精霊

・実は俺この映画結構ハッピーエンドだと思ってるんだよな

・親友二人はこじれてしまった仲を(それが不毛極まりない報復の応酬だとしても)新しい関係で結びなおすところで終わっているし

・親友ふたりが再び一緒にいるために新しく約束を結びなおしているのでイニシェリン島の精霊は実質ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期12話花開く思いだと言えるだろう。本当か?

 

キャプテン・フィリップス

ソマリアの海賊怖え、という映画でなく本当に恐ろしいのはアメリカの海軍の洗練された暴力装置っぷりのほう、という話。ボーダーラインはこれと対になる話だと思う。

 

ベネデッタ

・バーホーヴェンは本当に野蛮かつ過剰なものとしてのキリスト教レズビアンが大好きなんだなぁ、と思いました。

 

別れる決心

・あと20分削れば文句なしに傑作

オールドボーイで一番すごいと思ったのは長回しアクションでもなくタコを生で食うところでもなく、想像や回想が時間と空間を飛び越えて現在に接続される演出(黒幕が姉の自殺を回想するシーンとか)だったのでその演出が全編にわたり横溢していて、それがoui不穏さを醸し出している辺り本当に良かった。

・前半のフィルムノワールパート(火曜サスペンス的といってもいい)と前半で描いた話を脱構築するような後半パート、という構成も面白い。

ソナチネといい山椒大夫といい浜辺でラストを迎える映画は傑作が多いのだがこの映画の最後に現出した風景も感嘆するしかないようなものだった。

・反面構成にがとっ散らかりすぎていてあと30分ぐらい削れよ、とも思った。

 

宝石の国

・傑作。

・これ仏教の話だと思っているんですがどうでしょうか?

・これ世界の構造の話だと思っているんですがどうでしょうか?

・泣けるとかエモではなく、この作品を一言で表すと諦観になる

・後これを読んで泣ける、としか表現できない「花束みたいな恋をした」の有村架純菅田将暉に対してやっぱこいつら雑魚だわ、と思いました。

印象に残ったコンテンツ2023 1月

満州事変と政党政治 川田稔

政党政治の終焉と軍部の台頭の流れがかなり整理されていて分かりやすかった。

・軍部は嫌なことがあるとすぐに陸軍大臣出すのイヤイヤ期になるのが最悪だと思った。

永田鉄山惨殺事件で有名な永田鉄山の暗躍っぷり及び唐突の死を見ていると今の世界線永田鉄山が首相になる前に暗殺され、改変されたものではないか、という気がしてくる。

 

町かどの穴 R・A・ラファティ

ラファティの短編は初めて読んだけれどもかなり良かった。

・この人、SFの人というカテゴリでとらえるよりもジョイスベケットフラン・オブライエンに連なるアイルランド作家、として読んだほうがいい気がする。

・とくにフラン・オブライエンはだいぶ似ているところがあると思う。

・作品に対する不満ではないがそれはそれとして500ページを超える短編集は短編集の良さであるフットワークの軽さを殺しているのであまり好きではないな、とも思った。

 

日本の伝統 岡本太郎

・ミーハーなのでタローマンから入って読みました。

芸術は爆発だ!なイメージに反して凄い理路整然とした内容であった。

・古典を既に評価の高い確立された権威ではなく、その時代のモダンアートとして捉え、批評するというスタンスで書かれていて岡本太郎すげえ、の気持ちになった。

カルヴィーノの古典とはなにか?を想起させる名著。

 

笑犬楼VS.偽伯爵 筒井康隆/蓮見重彦

・私は大江さんに嫌われているから、と零す蓮見重彦萌え。

・実は筒井さんの小説で一番好きなのは時をかける少女なんですよ、と言い出す蓮見重彦萌え。

・それ以外の内容については面白いと思いながら読んだけどそれはそれとしてここで言及するとあまり内容を理解しないで読んでいるということがばれそうなので無言及で行きます。

・そのうちこのブログの記事で蓮見重彦萌えシーン集を書くつもりである。

 

地図と拳 小川哲

ラストエンペラーの主人公が紫禁城であったようにこの小説の主人公は満洲そのものであると思う。

義和団事件から始まり満洲国崩壊までの歴史を通して、そこに携わる人々の視点を通して満洲という主人公について語っている。

 

映画

フォンターナ広場 イタリアの陰謀

・やっぱ地中海の監督のポリティカルフィクションは相性がいいわ、と再確認した。

・グラディオ作戦、ドン引き

 

小さき勇者たち~ガメラ

・昭和ガメラのスタイルで描かれたガメラ三部作の返歌だと解釈した。

・三部作通して自己犠牲的な傾向が強かったガメラに子供の口から「自分を犠牲にしないで」と言わせる、ということがやりたかった映画だと思う。

・この映画だとガメラのサイズが小型に設定されていて、そこから逆算して作られた画作りもなかなか見ないものがあって良かった。

ジュブナイルパートの出来はかなり良かったがその反面大人パートのリアリティラインは混乱している所が多々見られたかな

 

コロンバス

・現代建築最高~~~~~~

小津安二郎風の撮影で現代建築の映画を撮る、というアイディアの時点で勝ちだと思う。

 

漫画

大奥 よしながふみ

・大奥という機構のシステマティックっぷりとそれにひき潰される人々の話。こういう歴史漫画が読みたかった。

・これに関してはどこかで記事一本書きたい。

 

まちカドまぞく 伊藤いづも

・マジで凄い漫画、これも考えがまとまったら記事を書きたい